想い紡ぐ介護士になるまで

HSP

これから僕が「想い紡ぐ介護士」なんて大層な名乗りを上げた経緯を生い立ちをさかのぼるところからお話していきます。

今回は具体的な話に移る前の予告編として、僕の経緯をまとめておきますね。

僕が「コミュ障×介護士」になるまで

・生まれてから12歳までは「そこそこ普通の少年」でした。人より話さない子どもでしたが、この頃までは幅広い友達と遊べていました。

・12歳のある時期を境に、コミュニティからの拒絶とコミュニケーションの絶望を感じ取り「コミュ障」となりました。そうして学校での「人との関わり」を断ち、孤独な日々を送るようになります。(参照:僕が12歳のときに体験した「心折れた話」

・その中で大学生時代、人間関係でトラブルを起こして人が心底怖くなり、1年半ほど大学へ行かなくなりました。この頃から十年余りにわたって電話の着信音に神経を乱されるようになります。

・それでも奮起して2年留年してなんとか卒業。しかし就職活動は全滅…。
(参照:資格を取るって本当に大切? ①大学時代とお金の話
(参照:資格を取るって本当に大切? ②実力勝負ができるか
(参照:資格を取るって本当に大切? ③目的を欠いた資格


・卒業後にホームヘルパー2級(現:介護職員初任者研修相当のもの)を取得しようと講座を受けるも「人とコミュニケーションを取る」介護の基本に挫折しかけました。

・なんとか踏ん張って実習を受けていると、コミュ障の自分だからこそ「話せない」「集団になじめない」辛さに共感できることに気づきました。

・実習を終えてヘルパー2級の資格を得て、僕は「人と話すことを苦手としながら、人と話すことを生業とする」コミュ障の介護士となりました。(参照:人と話せなかった僕が、人と関わる福祉で10年以上働く理由

 

派遣社員時代

・派遣社員として老人保健施設にて働き始めます。

・3日で心が折れるも、4日目に「介護士としてもっとも忘れられない人」と出会いました。以降派遣契約終了まで、その方のおかげで僕は自分の立ち位置を保てました。
(参照:忘れがたい利用者さんとの思い出①~④)

・今度は重度身体障害者施設にて派遣社員として働きます。ここで「かけがえのない人」と出会います。
(参照:かけがえのない利用者さんとの思い出①~⑤)

・派遣社員での処世術を学びつつ、それなりに働けるようになったものの「このままでいいのか」という不安がぬぐえず、介護福祉士を目指すべく派遣社員を辞めます。
(参照:僕が介護の派遣社員で働いて感じたこと

 

無職を経て、正社員へ

・派遣社員を辞めて3か月後には介護福祉士国家試験の筆記試験がありましたが、大学時代に資格試験を何度も受けていた経験が役立ち、合格しました。
(参照:資格を取るって本当に大切? ④介護福祉士を取るにあたって

・実技試験は講習を受けて免除していたため、3月末には介護福祉士の資格を取得。それまで社会に適合できるかすら危うかった僕が、国からその能力を認められたことは感じたことのない喜びとなりました。

・ところが、いざ再就職となるとコミュ障の部分が足を引っ張ります。僕の本質は資格を手に入れたからと言って何も変わっていなかったのです。

・貯金が限りなくゼロに近づいたところで、有料老人ホームの正社員として採用されました。ここまでで丸1年かかりました。
(参照:資格を取るって本当に大切? ⑤資格が保証するもの

 

正社員時代 ~サービス提供責任者になるまで~

・はじめての入所施設は、それまでの施設とは空気が違っていました。

・その空気感が利用者さんの「負の感情」と施設側の「収益化」によって生み出されていることに気づき、介護士としてどう働くべきかを問われます。

・そんな中、初めて「利用者さんの死」を経験することになりました。そして「時間や能力は有限で、できることは限られている」という現実を思い知ったのです。
(参照:利用者さんとの別れをどう受け止めたらいい?

・介護士としての道を見つけられずにいる中、ホームを運営する社長の手伝いをしたことから「あいつは気が利くやつだ」と注目してもらえるようになり、サービス提供責任者への道が拓き始めます。

・働き続けることで、僕はある特性により、これから起きるトラブルを察知して事前に回避できる力を発揮していきます。これは利用者さんや職員さんの助けになり、周りからも頼りにされるようになりました。
(参照:神経質すぎる利用者さんとの思い出①~⑥)

・そうして働くうちに「サービス提供責任者補佐」になりました。ここから事務仕事もこなすようになり、次第に組織の歯車として機能することになります。

・支援困難な利用者さんへの対応を何件もこなしていくうちに信用を集め、新規施設のサービス提供責任者へと任命されることとなりました。

 

正社員時代2 ~サービス提供責任者へ~

・新規施設には僕以外介護経験者がおらず、職員を育てながら施設を回していくことになります。

・しかし職員は皆年上で、生活力や人間力などはコミュ障の僕とは比べ物にならないほど高かったため、僕は次第にボロを出していきます。

・加えて僕は思春期を人と関わらずに生きてきたこともあって一般常識に欠けるところがありました。それが職員間とのトラブルを招く結果となり、あわやストライキにまで発展しそうになりました。

・「介護士としての能力が高くても、人としての能力が低い」ことが最後まで尾を引くことになります。

・それでも施設が求めるのは「収益化に適う能力」であり、それに応え続けた結果、サービス提供責任者を指導するエリア担当に選ばれました。

 

正社員時代3 ~「コミュ障×介護士」の終わり~

・エリア担当になって責任者を指導する立場になったことで、仕事は激務となります。

・朝5時に起きて夜10時に家に戻る日々が続き、休みであっても事務処理に追われて施設に赴いてパソコンに向かっていました。

・3施設分の訪問介護の各種書類を作成したり印を押したり、シフトでは自分の公休を2~3日削ってようやくシフトが成り立つような状況を調整するために奔走したり、各施設での人間関係でのトラブルを解決しようとしていくうちに、心身ともにボロボロになりました。
(参照:資格を取るって本当に大切? ⑥一線を越えてしまったら

・そのうち責任者の一人が激務に耐えきれず姿を消してしまいました。その責任者の負担ものしかかるようになり、次第に「死ななければ救われないんじゃないかな」と考えるようになりました。

・「どこまでなら自分の体がもつのだろう」と考える頃には、さらに無理難題を引き受けるようになりました。それで誰かが助かるのなら自分の体などどうなってもいいと本気で考え、そのように行動しました。

・そうしてエリア担当になって10ヵ月目。人への共感を損ない、ただ問題を処理するだけの装置となり下がった僕は「コミュ障×介護士」としての終わりを迎えました。

 

癒えることのない痛みを背負う

FineGraphicsさんによる写真ACからの写真

・その日、目が覚めた瞬間、心臓に激痛が走りました。まるで心臓に釘が刺されたかのような痛みが理不尽に襲い掛かってきたのです。

・なんとか心療内科に行き診察した結果、「心身症」と診断されます。「普通なら(心身症は)首や肩、腰に痛みが出るのだけれど、あなたの場合は珍しく心臓にそれが出ている」と先生に言われました。

・そこからの1週間は、ひたすら耐える時間でした。起きている間は心臓の痛みと「次の瞬間死ぬかもしれない」という恐怖と戦い、眠気が出てこれば「このまま目が覚めないかもしれない」と不安になります。自分が存在する限りこの苦しみからは逃れられないのだと思うとパニックになり、そう状態とうつ状態を繰り返していました。

・この状況では「なぜ自分は生きているのか」もしくは「なぜここまで痛いのに自分は死なないのか」について考えざるを得ませんでした。

 

無理の代償

・1週間が過ぎると心臓が痛むペースが「呼吸のたびに」から「数十秒に一度」に緩みました。感情が渦巻くような頭の中も少しは鎮まり、どうにか生活していくことはできそうでした。

・そんな中、エリア担当をしながら合格したケアマネージャー講習の日時が近づいてきます。施設からは「ケアマネージャーの資格だけはなんとか取っておけ」と言われていたので、痛みを引きずりながらも講習に参加します。

・アセスメントシートの作成などを行うためどうしても一度施設に赴かなければならなくなり、人の少ない夜間に施設を訪問しました。僕の代わりに役員が施設を回しており、事情を説明すると「倒れている奴が資格だけ取ろうとするのはおかしいと思わないのか」というようなことを言われました。

・施設の指示で資格を取るため心臓を傷めたまま無理をしていても、その施設からその無理を否定されるという状況。「この施設に尽くしたところで一切無駄だ」と思い知りました。
(参照:資格を取るって本当に大切? ⑦未来を切り拓く

 

命との対話

                                <a href="https://www.photo-ac.com/profile/2552752">仲居 宏之</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

・文字通り「死ぬ気」で踏ん張ってケアマネージャーの講習を終わらせたものの、心臓の痛みは治まる気配がありません。いつ治まるかも、あるいはいつ尽きるかも知れない日々は、うつ症状を強くしていきました。

・そんなある日、親が1泊2日の小旅行に連れて行ってくれました。水族館を見たり温泉に入ったりと、これまでの忙しい日々では決して得られなかった安らぎがありました。

・翌日、菜の花畑に行って菜の花を採ることとなりました。ビニール袋とハサミを渡され菜の花を採るために菜の花を前にしたその瞬間、僕は立ち尽くしました。

・「今のお前に菜の花を採ってまで生き延びる資格はあるのか」。他の誰でもない自分自身にそう問われたのです。

・再び心臓の痛みが激しくなります。無駄に生きようとする自分を戒めるように。

・心臓を傷めて親を心配させている自分。任された仕事を満足にできなかった自分。人に頼れず見限り、見限られた自分。周囲の期待に応えられなかった自分…。これまでの人生の中で何一つ成し遂げられなかった自分には生きる資格などないのではないか。そう考えると、到底菜の花にハサミを向けられませんでした。

・僕の様子がおかしいことに気づいた母は、気を遣って端で休むように言ってくれました。しかしそれすら不要な迷惑を掛けていると負担になっていました。

何もできない自分がなぜこうして生きているのか。その答えを出さない限り、自分自身を許すことができないのだと気づきました。

 

退職、そして何者でもなくなる

・心臓を傷めてから一か月が経ち、ピーク時より症状は治まったものの仕事に復帰できるような状態ではなかったため退職することとなりました。

・本部に菓子折りをもって退職手続きをすると、心配する人もいれば「さんざん迷惑を掛けたんだからせめて挨拶回りをしてこい」という人もいました。「組織の論理としては正しいけど、人としては間違えているな」と内心思いながらも声を出すのも億劫だったので片言返事で済ませました。

・自分の関わった施設を一通り巡り、最後に自分の本拠地ともいえる施設へ行きました。近づくたびに心臓の痛みが増しますが、最後なのだからと気力を振り絞って訪問しました。

・その日出勤していた職員に挨拶をして、これまでの状況を話している間も心臓は痛みました。僕の状態が依然として回復していないことは傍から見ても明らかだったようで、長居せずに立ち去ることをとがめる人はいませんでした。

・施設の玄関を出てふと後ろを振り返ると、それまで親しく関わってきた認知症の利用者さんから「はて、あんた誰じゃったかいのう?」と首を傾げられました。このとき「そうか、僕はもう何者でもなくなったんだな」とハッキリ自覚し、軽く会釈をして介護士としての自分を置き去りにしていきました。

 

人らしい生活で自信を取り戻す

・何者でもなくなったおかげか、心臓の痛みは日に日に和らいでいきました。

・朝日を浴びながら一時間ほど散歩し、昼には出かけて本を買ってはカフェで読みふける。夕食の材料を買って帰り、自分で調理するという日々を送るようになりました。

・それまで「給食か外食か」という食生活だったので、自分で火を通して作った料理の温かさに「料理ってこんなに温かいのか」と涙しました。

・人らしい生活を送れるようになると、心臓の痛みはストレスを感じるときに出てくる程度となりました。そうした自分の変化に自信がつき「自分はもう回復したのだ」と思って、退職して一か月で次の仕事に就く決意をします。

・ケアマネージャーの資格を手にしたことで業界内では選択肢が幅広く、僕は早々とケアマネージャーとして仕事をすることとなりました。

・引っ越し準備を終えて空になったコーポの一室を眺めると、嬉しさと寂しさが同時に襲い掛かってきました。

・働き始めようとする前日、また心臓が痛み始めましたが「これは期待感から来るものだ」と言い聞かせました。

 

「仮釈放」の数日

・勤務初日。配属された部署から漂う雰囲気に嫌な予感がしました。前の職場と同じような空気が漂っていたのです。

・月初めともなればケアマネージャーは書類に追われ、新人に時間を割ける余裕がないのは理解していたのでひたすら雑務をこなしました。前の職場では人を指導する立場にあっただけに、そんな自分の姿に「本当に一からやり直しなんだな」と思いました。

・次の日には先輩職員に同行して面談に参加しました。話している内容は隅々理解できたものの、人と面と向かって話すのはどうしても辛いものがありました。わずかに心臓が痛み始めます。

・三日目には施設への挨拶回りということで一人でアポを取り訪問することとなりました。電話が苦手なこともあり一つ一つの電話を緊張しながら入れ、その都度心臓はきしんでいきました。

・四日目は電話でのアポ取りと先輩との同行があり、どちらも緊張していました。結果同行先で利用者さんがこちらに手を伸ばしているのに何も反応できなかったことを叱責され、心が大きく乱されました。

・そして五日目の朝。目が覚めた瞬間に心臓が激しく痛み出し、息も絶え絶えになるほど呼吸が乱れたのです。一度目に倒れた時よりも症状は悪化していました。

・出勤してこない僕に職場から電話が入り、状況を説明したうえで退職を願い出ました。入職の際にこれまでの経緯を説明していたこともあってすぐに受理されました。

・自分はもう回復したのだと思っていただけに、さらに深刻な症状が襲い掛かってきたことにパニックになりました。絶望よりさらに深い底へ叩き落されたような感覚で、この数日僕に仕事をさせたのはそのための仮釈放に過ぎなかったのだと思い知りました。

 

生きる罪を問われる

・心臓の痛みは癒えず、これまでとは別の心療内科へ行き治療を受けることにしました。ここでも漢方をもらい、静養するよう言い渡されます。続いて「あまり無理せず、ゆっくりと休んでください」と言われたのが突き刺さりました。

・無理して早くから再就職しなければこんな事にはならなかったと誰よりも自分自身がわかっていて、それを見透かされたのがあまりにも情けなかったのです。

・その焦りがなぜ生まれたのか。それは「生まれたからには何かを成し遂げなければならない」という想いに駆られていたためです。そのため、何もしていない状態からいち早く抜け出さなければならないと考えて無理をしてしまったのです。

・僕は生まれたその瞬間から生きる罪を問われていたのでしょう。だからこそ無意味に生きようとするのを許せず、心臓を傷めてまで自分を罰しようとしました。つまり誰よりも僕自身が、僕が生きるのを拒んでいたのです。

・その事実に気づいた僕は、抗うのをやめてその罪を償うことに決めました。

 

何を奪い、与えてきたのか

・生きる罪を償うには命を捧げるより他ありません。長い年月をかけて資源を食い散らかし、時間を浪費し、人々の想いに応えられなかった自分がこれ以上何も奪っていけないと考え、絶食することにしました。

・夏の陽射しが差し込み、空調を切った部屋では数時間もすれば終えられるだろうと思い、実行しました。

・心臓の痛みが先か、体中の水分を失うのが先か。もはや自分の生には一切の価値がないのだから、その終わりがどちらになろうとも無意味なことに違いはない。そう思っていました。

・だんだんと喉の奥が乾いていきます。水分が欲しいという感覚はなく「これでようやく終わるのだ」と思うと待ち遠しさすらありました。この間も心臓の痛みは止まず、「自分が発見された場合その死因は何になるのだろう」とぼんやり考えていると、意識が遠のいていきました。


・僕の人生は「お前には居場所がない」とコミュニティに拒絶され、「お前の言っている言葉は意味が分からない」とコミュニケーションによって絶望させられた人生でした。どうしてこんなに人よりもできないことが多いのか。どうしてこんなに伝わらないのか。そういった孤独を抱えて一人暗闇を這いずり回るような人生だったのです。

・その人生が今、何も生み出さないまま終わろうとしている。お前の人生など何の意味も、何の価値もなかったのだと笑い飛ばされるためだけに。

・その未来を想像し、意識が完全に途切れようとするその瞬間、僕の脳裏に浮かんできたのはこれまで介護してきた人たちの笑顔でした。

・もっとも忘れられない人が見せた、一瞬のほころび笑顔。
・かけがえのない人が見せた、太陽のようなまぶしい笑顔。
・神経質すぎて誰からも遠巻きにされてしまった人が見せた、はにかみ笑い。
・戦争を生き抜き実力で財を築き上げた寝たきりの人が見せた、打算を超えた「認める」笑顔。
・手が付けられずにグループホームから移ってきた重度の認知症の方が見せた、子供のような笑顔。

・そういった笑顔が次々に駆け抜けていく中、ハッとなりました。彼らの笑顔は僕でなければ引き出すことができなかったのだと。

 

想い紡ぐ

・僕の生きる価値とは何かを成し遂げるためではなく、ともすればあまり理解されないような人の想いをも聞き取り、温め、そしてまた次の誰かへと紡いでいくことでした。そのように介護と関わってきたからこそ、僕はたくさんの笑顔に触れることができたのです。

・そう気づいたとき、僕は自然と「生きたい」と口にしました。その言葉に引きずられるように意識が鮮明になっていきます。あれほど終わることを望んでいたのにそれとは真逆の想いが零れ落ちたことに戸惑いながらも、それこそが本当の願いだったとわかりました。

・ここまで追い込まれてさえ自分は生きたいのだ。「生きる」ということ自体に価値があって、そこにはどんな理由も必要ないのだと、心の底から思いました。

・目を開けると、それまでかすんでいた視界が光に満ち溢れていました。生きてきた中でこれほど美しいものを見たことがありません。世界はこんなにも美しいもので満たされていて、もうこれ以上何を望めばいいのかわからないほど幸せを感じられました。



・生きよう。この先またどれだけ苦しいことがあるかわからないけれど、まずは生きてどうするかを自分で決めよう。それまで終わりに向かっていた僕の心も体も、この時を境に生きるほうへ方向を変えていきました。

・心臓がきしむ。涙が止まらない。この痛みは生きるための痛みだ。これだけ美しいものに囲まれ幸せに満ちた世界にどうにか僕をつなぎとめてくれている。そう思えば心臓が痛むことくらいどうということはない。ただ生きる喜びを思い出せばいいのだと教えてくれているのだから。
(参照:【章】想い響くしるし「想い紡ぐ」 Instagramストーリーズ ハイライト)


・こうして僕は介護によって誰かを生かし、自分自身もまた生かされました。この世界はお互いに想いを紡ぎ合うことで成り立っていて、自分が生きるということは誰かを生かすということなのです。大切なのはただそれ一つ、「すべての命は今ここに在ることがかけがえのない価値を持つのだ」と心に落とし込むことでした。

 

それからの日々 ~ゆっくり、かみしめるように歩いていく~

・それからの日々は、こうして得られた喜びをどのようにして伝えていけばいいのかに費やされる日々でした。

・まず生きるためにはお金が必要で、このときには貯金が一切なく親から支援をしてもらいました。(このお金を返すのに、今の職場に来てから二年かかりました)

・生きようと決めたからと言ってすぐに自分が変わるわけでもなく、ボロボロの心と体をどうにか整えながら勤め先を探しました。何度も面接で落とされ、いよいよ次に面接に通らなかったら実家に戻って細々と生きようと思っていたところで今の職場に勤めることになります。

・働き始めて二ヵ月で首と腰に軽度の椎間板ヘルニアを患うことになります。介護によって生かされた僕が体の故障で介護ができなくなることに危機感を覚え、この頃から本格的なダイエットに勤しむようになります。
参照:自分の身体と向き合い、愛情をはぐくもう

・東日本大震災の被災地視察へ行くことになり、震災から4年たった当時ですら生々しい傷跡が残っていたことに衝撃を受けました。また当時の状況を語る方々の言葉から、人の想いを紡ぐにしても人間関係には「きずな」と「ほだし」があることを意識するようになりました。
(参照:震災10年を前に、被災地視察を振り返る①  

・それから次回お話しする『しるしの魔術師』を名乗ったり、様々な人との出会いがあり今に至ります。ゆっくり、かみしめるように歩く僕の人生はこれからも続いていくのです。

こうして振り返ってみると、まとめだけでもかなり長いことに自分でも驚かされます。
ここまで長々とお付き合いいただきありがとうございます。

時折冗談で「僕自身の話をすると一日かかりますよ」なんて言いますが、まとめずに一から全部話したとしたら本当に一日かかりそうですね。それだけ伝えたい想いが強いのだと思っていただければ何よりです。



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