僕が12歳のとき体験した「心折れたときの話」

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HSP
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想い紡ぐ介護士になるまででお話ししたように、僕の人生は人との関係性によって何度も挫折させられてきた人生でした。

僕はHSPの特性によって気にせずにいれば良かったことまで気にしてしまい、結果長い長い孤独の日々を過ごすことになったのです。


今回はそのような生き方をする決定打となった12歳のころの「心折れたときの話」をします。

恥ずかしくなる思い出

僕の人生は「コミュニティからの拒絶」「コミュニケーションへの絶望」を抜きに語ることはできません。
この二つは幼少期からなんとなく感じていたものであり、12歳になって初めて明確に感じたものでした。


12歳のその瞬間を迎えるまで、僕はどこにでもいるような少年でした。

10歳のころ引っ越しを機に一度は友達を失いましたが、それでも数年後には引っ越した先で友達ができました。

またクラスメイトの誰かを好きになっても特に何もしないまま、学年が上がればその想いが自然消滅するような「まぁ、そういう子いるよね」という子どもでした。



ただ昔から女子と関わるのは苦手で、幼稚園に通う頃からどうにも女子の名前を呼ぶのに抵抗がありました。それは単にませているというのではなく、なぜだか自分が女子の名前を呼ぶのは許されていないような気がしてならなかったのです。

そのせいで小学1年生のころ「だるまさんがころんだ」でちょっと動いた女子の名前を呼ぶことが出来ずにゲームが成立しなくなってしまい、「ナカさんと『だるまさんがころんだ』をしても面白くない」と言われました。

それ以降、女子とはそれとなく距離を取るようになりました。



また、昔から人と話すことも苦手でした。

もともと三人兄弟の末っ子で、兄たちについていけば自分から進んで話す必要がなかったこととか、そもそも話さなくても伝わっているような感覚があったことがその理由なのだと思います。(詳細はHSPという祝福にて


そうしたちょっとした生きづらさはあったものの、12歳のその瞬間を迎えるまでは「みんな」というコミュニティの中で、なんとかやっていけていました。


それが崩れ落ちたのは、思春期ならではの悩みでした。

コミュニティからの拒絶

12歳になるころには人並みに誰かを好きになり、その想いに奔走させられるような少年になっていました。

違う点があるとすれば、周りの友達も同じように人を好きになっていくという事実に気づいたこと。

それまではただ友達として遊んできた彼ら彼女らが、ある日を境に突然恋愛対象へと変わっていく。あるいは胸の内にある想いを「恋」だと認識する。そういった変化を目の当たりにしていく時期があったのです。

その中では当然「友達が同じ人を好きになる」なんてこともあります。

夏目漱石の「こころ」を持ち出すまでもなくその葛藤は人を大いに悩ませることになるのですが、僕の場合はそれまでの生きづらさとその葛藤が掛け合わさったのです。


「その瞬間」は、不意打ちでした。


それまではまるで意識していなかった「誰が誰を好きか」という人のつながりが一瞬に頭の中に思い描かれたのです。それも一人ひとりが生きてきた背景も合わせて。


例えばAさんが好きなB君は、Aさんとは保育園のころからの仲で家も近いことから周りもB君がAさんと付き合うことを望んでいる、とか。

C君が好きなDさんはE君やF君に好かれているけど、C君は特にDさんを意識しておらず、E君が好きなGさんはHさんやIさんと結託してDさんに意地悪を仕掛けている、とか。


そんな生々しい人のつながりが線となって描かれたとき、そのネットワークの中に自分がいないことに気づきました。自分から線が伸びていても相手からは線が一切伸びていないのです。

それが意味するものとは「お前は誰からも愛されていないし、誰かを愛することを望まれていない」という、12歳の少年にはあまりにも重い衝撃でした。

これから自分も「みんなと同じように淡い期待が生まれるかもしれない」と心躍らせようとしたその瞬間、みんなには届かない所まで叩き落されてしまったのです。


途中から引っ越してきた僕には、みんなと同じような背景がありません。
みんなと同じ場所で、同じように経験してきた積み重ねが欠けているのです。

その欠けているものを頑張って別のもので埋めようとしても、やはり「でもあの時いなかったよね」を超えられない。
同じものを共有していない「異物」として扱われてしまうのです。



「そんな異物が自分たちのコミュニティに土足で入り込んで誰かをさらうような真似は許せない。何としても外にはじき出さなければ!」


そんな声なき声が聞こえてくると、今までの自分がまるで空気の読めていない寒いヤツに思えて。
誰も望んでいないのにみんなと関わろうとしていた自分が空しくなって。
「ああそうか、元々僕は独りだったんだな」と思い知って。


それらが自分の心にスッと落とし込まれ、コミュニティから拒絶された事実を受け入れ
たとき。


僕は人生で初めて心が折れました。

コミュニケーションへの絶望

それからの僕は周りとは話さず、独りで生きることになりました。

クラスメイトはもちろんのこと、学校の先生とも必要最低限のことしか話さずにいると、一か月もしないうちに周りもそのように僕を扱うようになりました。


なにしろ、もうこのコミュニティには拒絶されたのだから。
彼らへのコミュニケーションに意味などないと絶望したのだから。

そんな僕が、なぜ人と話す必要があるのでしょうか。
拒絶され、通じもしないことがわかりきっているのにどうして僕が話さなければいけないのでしょうか。

その疑問に答えられる人が、もしかしたらいたのかもしれません。
ただ当時の僕は徹底して人と話すことを拒み続けましたから、そうした機会も自分から手放してしまったのです。



徹底ぶりで言うと、僕が習字道具を忘れたときの話です。


「習字道具がないなら借りてきなさい」と先生は指示しましたが、僕は独りなのですから当然「借りる相手」がいません。であれば僕に対しては「借りる」という指示が間違っているのであり、そう考えついた時点で僕はその場から一切動きませんでした。

業を煮やした先生が廊下で正座するよう怒鳴りつけます。

正座なら独りでもできることなので廊下に出ていき正座をします。それが僕に与えられた罰ならば正座することで償えるわけですから、この件はこれで終了となるはずでした。


ところが授業が終わったところで先生が僕の腕を引っ張り隣のクラスへと連れていきます。全力で抗いましたが大人と子供の力比べでは勝負になりません。

無理やり隣のクラスの教壇に立たされた僕は先生から「習字道具を貸してくださいと言え!」と命令されました。
僕は力で負かされたのと隣のクラスで恥をかかされたのとで泣いてしまいましたが、それでも決して自分の口からは話すことはありませんでした。

あまりのことに先生も折れたのか習字道具を貸すよう生徒に指示したのですが、僕はそれを受け取りません。こんな形で借りても先生の言うことに従わされただけになるし、何より返す時にまた辛い思いをしなければなりません。そんな目に合うくらいなら死んだほうがマシだ、と覚悟を決めたのです。


結局僕はその日の習字はやらずに家に帰りました。

罰なら廊下で正座させたうえに大勢の前で泣かされるという恥までかかせたわけですから、それ以上のものを先生も要求しづらかったのでしょう。


その日以降、先生もまた僕に最低限のことしか言わなくなりました。

それは「違うコミュニティにいるのだから適応されるルールが違う」ことをお互いに理解したうえでの妥協だったと思います。

その条件を踏まえた上では特に逆らうようなことはしませんでしたし、僕は下手にテストで100点を取りまくる少年でしたから、「こいつはもうそっとしておこう」と判断されたのかもしれません。


話さず、しかし行動で自分の意思を示す。


そんなことを続けているうちに一日全く話さない日が次第に増え、それまで友達だった同級生からも声を掛けられなくなりました。

このときから誰かが借りた図書室の本を机の中にねじ込まれ「返してこいよ」と言われたり、トイレに呼び出されて腹に二、三発もらったりするような出来事が起き始めました。


お互いにとってお互いが「赤の他人」となり、排除の対象となったのです。


同級生たちは物理的に僕を排除しようとして、僕は自分の意識から彼らを排除したわけです。人と人とをつなぎとめるコミュニケーションを断った以上、こうなることは避けられませんでした。


お互いに「言葉が通じない」と分かり合ってしまったが故の悲しい出来事でした。

鈍感な世界を敏感に生きる

こうして当時のことを思い返してみると、いたたまれない気持ちになります。

大人になった今なら当時の僕が感じた拒絶と絶望なんてものはただの思い込みだったのがわかりますし、かといってそれを伝えたとしても僕が頑として譲らないこともわかるのです。

それにもし12歳のころにそれらが起きなかったとしても、近いうちに必ず同じような体験をして僕は勝手に絶望したのでしょう。


なぜならこれらはすべて僕の内面の問題で、周りの環境がどんな優れたものであってもどこかのタイミングで自滅するようになっていたからです。

つまりどこにいても、どうあっても心が折れることは確定しており、それを乗り越えなければ僕の人生は良くならなかったのです。


それだけ僕が抱えていた生きづらさは深く、鋭く、そして広く僕をむしばんでいました。自分の性質によって傷つくことがあらかじめプログラミングされているかのように僕の思考、行動は決められていたのです。

傷つく以外の生き方を選ばないように。
そうとしか行動できないように。

他の人からすれば「そうしなければいい」の一言で終わる話を、僕はどうあっても選べず、行うことが出来ませんでした。「そうしなければいい」と思えるほどの鈍感力を、どうあっても手に入れられなかったのです。


僕が生きてその「場」にいる限り、僕の体は否応なしに他人からの刺激を敏感に受け取ります。この性質にスイッチのオン・オフなどなく、できることはと言えば自分の体に自分が傷つかないような「イメージのバリア」を貼るくらいでした。

そしてそれすら、人の強い想いを前に脆く崩れ去ってしまいます。そして崩されるたび心はかき乱され、全身は震え上がっていくのです。


なので、僕はずっと遠回りをするような生き方をしてきましたし、今でもまだ遠回りをしているような感じがします。

それはみんながまっすぐ行ける道をみんなの姿が見えなくなるくらい遠回りをして、道中何度も何度もつまずいて、そうやってたどり着いたころには誰もいない。そんな人生です。

でも僕は、そうやって遠回りをしなければ自分の平穏を保てないのです。
みんなと同じようにまっすぐに進むには、この世界はあまりにも刺激が多いのです。



世界が自分たちの発する刺激に鈍感すぎるのか。
それとも僕が世界から受ける刺激に敏感すぎるのか。

感受性は人によって個別化されており、この問いは「どちらも正解」なのでしょう。


だとすれば僕の人生は傷つくことが前提で、傷ついた先でどうするのかを自分で決めて前に進むより他ないのです。


その道のりが孤独であり、人には理解されないだろうとわかっていても行く。
傷つくことがわかっていても、痛みを感じながら前に進む。

立ち止まれば傷つくだけで、得られるものは何もない。
安息は遠く揺らぐ陽炎のようで、近づこうとすれば幻に消える。

だからこそ、この人生は尊い。
人が選ばない、選びたくない道にこそ自分にしか見つけられない喜びがある。

そしてその喜びを持ち帰ってみんなに振り分けたとき、僕は初めて人の側にいて幸せなのだと感じられるのです。


自分のもたらすもので誰かに喜んでもらえたなら、どんなに。



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