2021年2月13日。福島県沖で震度6強の地震が発生しました。
家屋や人的な被害が見られるものの2021年2月22日現在では死者は出ておらず、一時的に交通機関が運休したり約83万世帯が停電したりといった混乱もありました。
この地震について気象庁は、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の余震であると推定しており、東日本大震災からの復興10年を前に今一度被災地視察をしたときの記録を振り返ろうと思いました。
今回は「震災から4年後の被災地視察」に参加した際のレポートを基に記事を書いていきます。
復興10年を前にあらためて学びを深めていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
ゼロからのスタート
※ この話は2015年被災地視察の折、「NPO法人 奏海の杜」太齋様より伺ったものを文章化したものです。
高さ15Mの津波が押し寄せ街の7割が壊滅状態となりました。
崖に瓦礫が張り付き、大きな木が根こそぎ倒される。街にはプロパンガスの匂いが充満し、1日2日は歩けない状況だったと聞きます。
そのような状況にあって、「NPO法人 奏海の杜」の前身である被災地障がい者センターは南三陸として内陸の登米市に事務所を借りて、そこからボランティアを派遣していました。
最初は何をしたら良いか、何をして欲しいかがわからない。
周囲の方々もボランティアとは何か、何を頼んだらいいのかわからないという何もない状態からのスタートとなったそうです。
互いに意見を交わす中で、自閉症のある障がい者の日中一時支援や送迎の手伝いをしていくこととなります。当時は交通の足がない状況で病院へ行けないというのは切実な問題であったため、その話を聞いた他の母親もボランティアを頼むようになっていきました。
そうして人が望む活動を始めるとそれを求める利用者も増えます。
そうなれば利用者が増えれば受け入れる場所が必要になり、また支援を行うための知識・技術も備えなければなりません。
ボランティアを始めた頃は素人同然だった職員はそれらの必要性を感じ、場所がいるなら場所を持つ人の元へ赴き交渉し、知識や技術を備えるために研修への参加を惜しまなかったといいます。
こうした姿勢が被災地でのつながりを作り、より大きなつながりを育んでいく基礎となりました。
現在では「障害があってもなくても地域を奏でる人になる」を合言葉に、障害があってもなくても誰もが自分らしく暮らせる地域へ、お互いができる範囲で支え合い誰もが主体的に生きる地域を目指されております。
また先日「障害があってもなくても集える 学びと交流の拠点を作りたい!」というクラウドファンディングを立ち上げられ、地域交流館『交ゆう館かなみ』の設立を実現されました(2021年6月オープン予定)。
何もないところから一つ一つのつながりを築き上げてきた奏海の杜は、今なお人々の願いを叶えるべく大きなチャレンジを続けておられます。
(奏海の杜 ホームページ:https://kanaminomori.org/)
震災を経験して
戸倉中学校はリアス式海岸の海辺、海抜約20Mの高台に建てられており避難場所に指定されていました。
震災時には入り組んだ湾のせいで押す波と引く波がグラウンドでぶつかり合い、校舎1階に避難していた人々も2階へ上がらなければ津波に飲まれてしまう状況だったと聞きます。
津波は推測22Mまで跳ね上がり、戸倉中学校1階の窓ガラスには視察当時でさえも津波の跡が残っていいました。
体育館の渡り廊下の地面が津波によってえぐり取られ、避難場所として中学校に逃れて安心した人々は、津波の規模に気づかず被害を受けるこことなってしまいました。
この一件は津波を直接「見る」ことの大切さを物語っています。
このような状況下で、看護師のHさん(仮称)は当時の様子を刻々と話されました。
震災1日目、Hさんは祖母と遊んでいたら大きな地鳴り(地震とは異なる)を聞いて、津波が来ると確信したといいます。
Hさん自身は地元民ではなかった為、どこへ逃げるかという話になった時に母の住む戸倉の高台へ逃げることとなりました。
祖母を担いで高台へ逃げて改めて津波を見てみると、海の水がないくらい波が引いていたそうです。
Hさん自身は戸倉よりさらに高い神社へ避難しましたが、波が引いてから30分後、津波を見ようと集まった人々は小さな波が重なり一つの大きなうねりとなった波を見て飲み込まれてしまいました。
その夜、雪が降り集まった人々は神社の中に入り枯葉や枝を集めてライターで火を炊き暖を取りましたが、この時すでに低体温症などの症状があらわれる人が出ていたと言います。
2日目、戸倉中学校に移ります。
この時点ではまだ地元の人々に津波の被害状況などは伝わっておらず、後に東日本大震災と呼ばれる大災害が自分たちの身に起きているとは知らない状況だったそうです。
3日目、食べるものがなく皆疲れ果てていました。
中には発狂する人もおり、切迫した状況だったとHさんは語ります。男性を中心に食べられるものをかき集めましたが、子どもや高齢者に分けるとほとんどなくなり、自分たちは何も食べられなかったそうです。
4日目、救助をするという状態ではありませんでした。
自分たちが生き延びるのも精一杯で、気仙沼の両親の安否が気になるが目の前で苦しむ人々を見て「とても帰れる状態ではなかった」と鎮痛な面持ちで語るHさん。
特に看護師という立場上、自分が目の前にいる人々を見捨ててしまったらどうなってしまうのかという重責に苛まれながらも低体温症の人などを助けられました。
5日目、事態がやや落ち着いたところを見計らって、親戚のバイクを借り両親の元へ。
道路は渋滞しており山一つ超えることも困難で、それでも実家に訪れようとしたHさんが見たものは津波にさらわれて姿を消した家の跡でした。
その後Hさんは情報を求め公民館を訪れました。
そこには大切な人を探す人々で溢れ、半日ほどかけてようやく人伝いの連絡網で親が実家近くの寺に避難していることを知り、再会を果たされました。
親の顔を見た時、喜びとも安心とも言い表せないような感動があった、と穏やかに語ります。
そこで出された小さなおにぎりを一つもらい、口にした瞬間に生きている実感がこみ上げ、その場で号泣したといいます。
「3日目まで帰れるような状況ではなかったし、また帰りたいと言う職員はいなかった。本音では皆帰りたかったけれどそれはできなかった。自分の家族と目の前にいる人を天秤にかけた時、どちらを選んでも誰も責められないけれど、でも、目の前の人を助けようとしたから人とのつながりができて、僕も親に会う事ができたんだと思う」
と締め括りに語られました。
現実に、目の前で苦しむ人と自分の大切な人とは直接的な関わりはないかもしれません。
しかし衣食住もない、いつ助けが来るかも分からないという極限状態にあって、利己的な思いよりも今できることを優先し利他的な行動を取ることで、困難を背負った人々はお互いを助け合う「集団」となったのです。
その集団は生き延びるためにつながりを大切にする。
つながりのある者が困れば皆で助けていく。
そうして人を助ける者は人に助けられ、また別の人を助けていく。
このつながりが広がっていくことで人を助ける輪、すなわち「絆」が出来上がるのです。
そしてその絆があったからこそ、Hさんも自分の親と再会できたと言えます。
戸倉中学校のグラウンドでは視察当時に仮設住宅で暮らす人々がおられ、震災以降つながりを大切にしてきた方々がその日もおしゃべりしながら日々を営んでおられました。
子、孫に生きている幸せを
※ この話は2015年被災地視察の折、「震災の語り部」後藤様より伺ったものを文章化したものです。
南三陸町を襲った津波は約15Mの引き潮となり、その後15Mの高さの第一波となりました。
実際に起きた津波は時速40kmの速さで押し寄せ、堤防や家を丸ごと飲み込んでいく。
また引き波には家の屋根が波の中で確認できたものの、それも島影に消えていくという有様。
その中で視察当時もなお骨組みだけ残っていたのが防災対策庁舎でした。
防災対策庁舎のある南三陸町志津川塩入では10Mの埋め立て作業が着々と進められていました。
ただこの地区は震災後に危険区域に指定され住宅が建てられなくなり、埋め立てた土地にどのような施設を建設するか。復興記念公園の設立や商業施設の建設などの案は出ているが行政や住民の間でも議論が尽きない状態でもありました。
また防災対策庁舎においても「震災を後世に伝えるためには庁舎は必要だ」とする意見もあれば、「庁舎を見るたびに震災当時の事を思い出してしまい辛くなる」という意見もあり、保存か解体かは行政を巻き込んでの議論を招いていました。
こうした背景がある中、震災の語り部である後藤さんは防災対策庁舎は保存すべきだと語ります。
その理由として後藤さんは、震災から4年3ヵ月に至るまで南三陸町の情勢を見てきた中で、物事というものは五感をもって初めて理解できるからだとおっしゃります。
それはテレビやラジオといったマスメディアの情報に人々が左右されたり、震災以前の津波経験から「ここまで逃げれば津波は来ないだろう」と安心したが故に津波の影響を受けた人々を眼前で見たりしたが故の痛感からでした。
実際に後藤さんは震災直前から津波の状況を逐次確認して行動し、避難場所よりさらに高い場所へ移動して家族ともに助かったといいます。
「私たちはテレビやラジオで知ったような気になっているけれど、実際に見て、感じてみないことには本当の事は何もわからないんです」
庁舎の前で語る後藤さんの声は柔らかに響く。
潮香る風は冷たく、二対の地蔵を暮れの陽射しが暖かく照らしていた。
「国は津波対策で10Mの埋め立てをしたり7Mの堤防を建てたりしようとしているけれど、地元に住んでいる私たちにすればちぐはぐにしか見えない。実際に南三陸に来てもらえば私たちが今何を望んでいるかわかると思う」
「原発でもそうです。あれだけの被害を出しながらまた原発を再開させようとしている。電気は原発がなくても十分に賄えるのに、過去から学ぼうとしていない」
「もし原発が絶対安全というなら、地方に建てずに都市部にあっても問題ないはずです。そうしないのは国が原発が危険と知っているからで、危険だからこそ地方にその危険とカネを交換して建てさせたんです」
「原発を再開させても、その廃棄物は正常でも50万年安定させなければならない。その処理すら安定しないまま再開していいのか」
堰を切ったかのように語るその表情は険しい。
津波が人を、車を、建物を飲み込み沖へとさらって行く姿を目の当たりにした後藤さんは、国がいくら安全性を訴えかけても一度自然災害が起きてしまえば何の意味もないとおっしゃられます。
その一方で後藤さんは自然に対する畏怖について「科学や技術がいくら進もうが、人間は自然の許す範囲でしか生きられない」と語ります。
「この防災対策庁舎がある地域は『潮入』といって、江戸時代に宿場として埋め立てられた場所なんです。今回の津波で、埋め立てという人間の行為が海から奪ったものを自然が奪い返したように思えるんです」
「震災後、南三陸の海底はヘドロがなくなり50年は若返ったと言われています。海産物は震災後の方が良く育っているんです。だから自然というものはただ奪うだけではなく生き物に対してちゃんと恵みをくれるんですよ。
でも私たち人間は自然から奪うばかりで返すことをしない。震災から地震や天候異常といった自然災害が続いていますが、それは今までの人間の行いに自然が怒っているんだと思っています」
地球温暖化から始まり、現代文明の発展と環境破壊は対として語られます。
今回の震災が自然からの警告だとすれば、その警告を無視するような行為は更なる被害を生みかねません。
国が南三陸町の埋め立てや堤防の建設、原子力発電所の再稼動を行うのは、東日本大震災における多大な被害に対してその意義を無意味にするばかりか、この先起こりうる被害を自ら招く行為となりうるのではないでしょうかーーそう伝えたいように感じました。
日が暮れかかる中、語りの締め括りとして後藤さんは次の言葉を残しました。
「自然に逆らって今の暮らしを続けていたら、子や孫の世代にどうなるかわからない。子、孫に生きている幸せを感じてもらうのが私たちの役目だと思います」
~ つづく ~
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