神経質すぎる利用者さんとの思い出 ④「共感」の誤解

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介護
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前回に引き続き、神経質すぎる利用者さんとの思い出を振り返ります。

誰もついていけないような「細かさ」を持つその方が見せた本音。
傷つけたくなくても「細かさ」がどうにもならない葛藤に触れたとき、
その方の味方になろうと決めました。

今回はその続きとなります。

「細かさ」を受け入れる

翌日からその方に対する印象がガラリと変わりました。

一度自分ではどうにもならないもので苦しんでいるとわかってしまえば自分の性質によって被害を受け続けているのだと理解できます。


表面的には加害者に見えても、その方は本質的に被害者なのです。


それも「自分」という逃れようのない存在からの被害者ですから、その方の支援をするというのは「その方の細かさからその方を守る」ことに他なりません。

気になって仕方がない部分を寸部の狂いもなくひとつひとつ解消していく。
それを「わがまま」ではなく「細かさ」と受け入れ、肯定する。

この二つを徹底していくことが真にその方が必要とする介助であり、介護士である以上その価値観を理解して守っていくことが大切です。


誰にだって良いところと悪いところがありますし、その「良し悪し」を決めるのは本人ではなく周りなのです。

その方の「細かさ」に耐えられない人々がその「細かさ」を悪と決めてしまったから、その方をどんどん追い込んでしまったのです。その方に「どうしてこんな風になってしまったんだかなぁ」と言わせてしまうほどに。


入所施設に住まうその方に寄り添えるのは施設で働く職員だけです。
そして生活部分の多くを介護士が担っています。

であれば、介護士がその方の価値観を理解して守っていかなければその方の生活はどうなるのでしょう?

どうにもならない「細かさ」によって介護士が傷つけられたなら、傷つけられた介護士は同じようにその方を傷つけてもいいのでしょうか?

「やられたらやり返す」という稚拙さで入居者の生活を、人生を脅かすようなことが介護士のやるべきことなのでしょうか?


そのことを思えば、せめて自分だけでもその方の「細かさ」を受け入れようと決めました。

同じ「痛み」を

決められた時間に、決められた手順で、決められた方法で、正確に、丁寧に、寸部の狂いもなく介助を行う。来る日も来る日も、僕が出勤しているときは極力その方が自分の細かさに苦しまないよう配慮していきました。


一つの動作に対してその方がどのように反応するか。何に反応するか。
その原因は何か、その方が言葉にする前に察して直していく。
「細かさ」でその方が傷つく前にその発生点を無くしていく。

それは一言で言えば「その方の細かさを超える」ということ。
何に傷つき悩ませられているのかを逐一分析し、原因を突き止め、先回りするということです。


文字にすれば簡単に見えますが、実際には並大抵のことではありませんでした。

「細かさに寄り添い、超える」というのは自分もまた同じ細かさを抱えたうえで解決していくということですから、同じように、もしくはそれ以上に傷ついていくことになります。

衣服のほんのわずかな乱れが気になってイライラしたり、
椅子が出入り口に対して垂直位置に置かれていないことに気が散らされたり、
言葉一つとっても「なぜその言葉を選んだのか」に悩まされたり。

職員として支援をするだけでも心が折れるその「細かさ」を、支援するだけでなく自分の中に取り込むというのは、当時の職員の言葉を借りれば「とても真似できない、クレイジーだ」ということです。


でも、そうしなければその方の抱える「細かさ」に寄り添えませんでした。


自分が傷つこうとも介護士としてその苦しみに寄り添えないのだとしたら、何のために介助をしているのか、その意義を失うことになります。

そして介護士としての存在意義を失うことは僕にとっては最早死活問題でした。


介護福祉士になるために裏切った想い、手放した想いがあって。

そうまでして手に入れた資格を持って働く自分が「辛い」とか「苦しい」という理由で介護を諦めることなど許されない。そう思っていました。

身を焦がしてでも、粉にしてでも目の前で苦しむ人がいるなら助けるべきだ、と。


そうして。


いつしかその方は小言を言わなくなり、居室の中にいる時だけ雑談をしたり笑ったりされるようになりました。

~ つづく ~

小休止 ~「共感」を誤解していないか?~

巷で「共感」という言葉をしばしば聞くようになりました。
また僕自身も興味を持って共感について書かれた著書をいくつか読んでもみました。

結果それらの有効性は確実にあると思う一方で、危うさも同時に感じました。
「都合のいい所しか『共感』していないな」と。


共感が語られる場合、その多くは人の「良い面」に焦点を当てています。
「自分らしさ」とか「私の想い」とか、誰もが大切にしたいと思う部分を分かち合うことで相手を自分と同じ存在、仲間として受け入れるわけですね。

「自分のことを大切にしてくれる人」として。


ではこのとき、「悪い面」はどうなるのでしょうか。


「良い面」ばかりが共感される以上、「良い面」でなければ共感されなくなります。

壁にいたずら書きをしたり、ありもしない噂を広めたり。
そうした「人を傷つける行為」は到底共感されませんし、ましてその行為で自分が傷つけられてしまったら共感どころではありません。

そうなると自ずと「悪い面」は「あってはならないもの」にされてしまいます。


「悪い面」は誰からも望まれない。しかしどんな人でも良い面と悪い面があります。
正確には「自分」を見る周りの目によって「良い面」や「悪い面」に切り取られてしまいます。


例えばある人が「融通の利く」と評価されたとき。


それを「良い面」と捉える人は「あの人にお願いすればうまく問題を解決してくれるかも」と期待して、またそうしてくれる人の味方になろうとします。

一方で「悪い面」と捉える人は「あいつは規則を守らずに自分が良い顔したいだけだ」と不審に思い、その証拠を集めてその人と敵対しようとします。


同じ「融通が利く」でも周りの捉え方によって良いとも悪いとも捉えられるのですから、当人としてはありのまま生きているだけでも人から責められる可能性が出てきます。


「それは『悪い』ことだ!」と決めつけられて。

ひるがえって今日語られる「共感」はどうでしょうか。


「良い面」ばかりに共感する在り方が称賛される今日の「共感」は、それが通用する範囲では大きな力を生み出します。

同じ思いを持つ人を囲い込んで団結力を高め、一人では叶えられなかったようなものでも実現させていきます。またそれまでは理不尽でも受け入れざるを得なかった状態・状況を跳ね返し、より良く生きられる環境をもたらすこともあります。

ここ数年で台頭してきたクラウドファンディングオンラインサロンなどは「共感の良い面」が具体的に現れたものと言えますね。

クラウドファンディング(英語: crowdfunding)とは、群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語である。不特定多数の人が通常インターネット経由で他の人々や組織に財源の提供や協力などを行うことを意味する。

クラウドファンディング -Wikipedia-

オンラインサロンは、月額会費制のWeb上で展開されるコミュニティ(クローズド)の総称である。

オンラインサロン -Wikipedia-



同時に今日の「共感」は「悪い面」に対して排他的でもあります。

それは「良い面」が存在するためには「それを否定するもの」が必要であり、良い面にとっての不利を「悪い面」と捉えることで団結を生み出そうとしているからです。

「悪い面」が存在するからこそ「良い面」が浮き彫りになり、そこに自分が居ること、同じ思いを持つ仲間が集まることに安心感を覚えるわけですね。

SNS上で時折見られる炎上は「自分たちこそ良い」と証明するための儀式であり、炎上に加担する人の多くはその事象について深く調べることなく「悪いのだから悪い(攻撃してもよい)」と条件反射的に行動する傾向にあります。


そうしなければ自分が「良い面」にいることを証明したり感じたりできなくなってしまうから。


共感とは本来良い面だけでなく悪い面も併せて相手の感情そのもを共有することであって、自分の都合のために相手の感情を利用することではありません。

共感(きょうかん)、エンパシー(empathy)は、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと。

共感 -Wikipedia-


介護においても共感は個人の意思を尊重する点で大切な役割を果たしますが、介護士にとって「良い面」だけを共感してしまえば相手を操作し隷属させるだけです。

介護士が「良い面」に立ちたがれば、「私の言うことが正しい」「あなたは間違っている」といったメッセージを自覚・無自覚に関わらず相手に送ってしまうわけですね。


このことを如実に表すのが「私の言うことを聞いてくれない」という言葉・態度です。


そういった質問をされたり、光景を見かけたりするたび「なぜ利用者さんがあなたの言うことを聞かなくてはいけないの?」と問いかけるのですが、「良い面」に立ちたがる介護士は自分の正しさを疑えずに「だって私の言うことを聞いてくれないんです!」を繰り返すのです。


相手の感情を理解せず自分の感情を一方的に押し付けて同意させることを共感とは呼びません。

それは「命令」ですから、利用者さんからすればなぜ介護士に命令されなければならないのか、例え論理的に介護士の言い分が正しいのだとしてもまず感情に寄り添えていない時点で理不尽であり、受け入れることが出来ないのです。


「介護士」「利用者」を逆転させて自分が命令される側になれば、なぜ受け入れられないのかは実感としてわかるかと思います。

長くなりました。


介護士が取るべき「共感」は本来の共感、すなわち相手の感情そのものを受け入れることです。
自分や周囲の判断で相手に「良い面」「悪い面」とレッテル貼りをすれば、そこから生まれるのは上下関係です。


もしあなたが介護をするとき、もしくはこれから介護をするようになったときに「どうして私の言うことを聞いてくれないのだろう」と悩むようになったら要注意、ということですね。

そのときのあなたは「してあげる」という上下関係を、相手の許可も取らずに勝手に作ってしまっているのですから。

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