障害者支援を通して学んだ「常識を疑う」という人生訓

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このブログでは高齢者介護のついてお話しすることもあれば、障害者支援についてお話しすることもあります。

これは高齢者介護の経験が7年ほど、障害者支援の経験が8年ほどあるためで、どちらについてもある程度明るいのが僕という介護士の特色になっています。


そこで以前の記事「高齢者介護をして良かった5つのポイント」にならい、障害者支援をして学ばせてもらった大事なポイントをお話ししていきます。


今回は「常識を疑うこと」について。
「常識とは何か、正しいとは何か」を通じて常識を疑う意義についてお話しします。


なお「障害」の表記については「障がい」とするのか「障害」「障碍」とするのかで様々な考えがあるかと思いますが、僕個人は「表記の仕方で障害にかかわる諸問題の本質が解決するものではない」という考えですので、私的立場においては以降「障害」の表記を用いることをあらかじめご了承ください。

まずは「常識」についての共有を

障害者支援のお話をする前に、まず「常識とは何か」を共有していきます。
ここの考え方がお互いにずれているとその後のお話も伝わりにくくなってしまいますからね。


人は誰しも自分の人生を生きるなかで「○○とはこうあるべき」といった具合に本人にとっては当たり前のことを培っていきます。

そのように過去の経験から普遍的な情報を抜き出して「だれにでもあてはまる現実」を見つけ出し、それを「常識」と呼んでいるわけですね。

常識(じょうしき)は、社会を構成する上で当たり前のものとなっている、社会的な価値観、知識、判断力のこと。また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。

常識 -Wikipedia-


この「当たり前」という感覚が社会を作る上で大切なものであり、お互いが共有できる価値観がなければ相手を信用することができなくなります。

言い換えれば「お互いこの価値観に則ってやり取りしていこう」という安心感があるから相手を信用でき、協力することもできるわけです。

そして「常識」を取り扱う人が増えれば増えるほど大きな結束力を生みだすことになりますが、ここには一つ大きな落とし穴があります。


それは「常識は正しい」と誤解してしまうことです。



上で見ていただいたように、「常識」とはあくまで「(社会の中で)当たり前と思われていること」であり「正しい」わけではありません。

規模の大小にかかわらずその価値観を共有する社会でしか通用しないのが「常識」であって、正しさとはもっと広い範囲に適応される法則性の中にあることなのです。

正しいとは、法や道徳といった、既成の法則性の枠の中にあること。

正しい -weblio辞書-


これは社会の中にある「常識」の外側にも法則性としての「正しさ」がある、ということです。


たとえば僕は車を運転するときには標識に示された速度に従う「正しさ」で運転をしていますが、時にそのような速度で走る僕を後方から車間距離を詰めてあおる運転手もいます。朝方は特に。

その運転手にしてみれば僕の前方は道が拓けており、また見渡す限り安全なのだから「少しはスピードを上げてくれよ」といった心情だと思われます。朝の出勤時間帯、急いでいるときはそれが「正しい」と考えているわけですね。


しかし、その人にとって自分の常識が「正しい」のだとしても、法として正しくありません。

もしその人の常識に合わせてスピード違反をすれば、罰則を受けるどころか人身事故すら起こしかねないわけです。

しかもそうして自分の常識によって相手が事故を起こしたとしても「自分ならもっと上手くやれた」と自分の常識の中へ逃げ込んでしまい、相手をあおった責任を取ろうとしません。


「自分は悪くない」「下手をした相手が悪い」と言って。



このような姿勢は客観的に見て「正しい」とは言えないわけですから、「正しさ」の一部に常識が含まれることがあっても「常識」が正しいとは限らないのです。


そしてこの「常識が正しいと限らない」という感覚が障害者支援をするうえでとても重要になるのです。

< ここまでのまとめ >


「正しさ」は「常識」を含むが、「常識」がすべて「正しい」わけではない。

常識が正しいと考えると、「自分は悪くない」と思い込むようになる。

常識に縛られる

障害を持つ方々への支援をするなかで感じるのは「一人ひとりの人生が個別化されており常識では測りきれない部分がある」ということです。

特に僕がこれまで支援させてもらった方々は「身体障害」と「知的障害」を併せ持つ「重複障害」の方が多かったため、一人ひとりのもつ世界観が独自のものであることが多かったのです。

身体障害(しんたいしょうがい)とは、先天的あるいは後天的な理由で、身体機能の一部に障害を生じている状態、あるいはそのような障害自体のこと。

手・足が無い、機能しないなどの肢体不自由、脳内の障害により正常に手足が動かない脳性麻痺などの種類がある。視覚障害、聴覚障害、呼吸器機能障害、内部障害なども広義の身体障害に含まれる。

先天的に身体障害を持つ場合、知的障害等を併せ持つことがあり、これを重複障害という。

身体障害 -Wikipedia-

知的障害(ちてきしょうがい、英語: Intellectual Disability)とは、

1.知的機能に制約があること
2.適応行動に制約を伴う状態であること
3.発達期に生じる障害であること

の3点で定義されるが、一般的には金銭管理・読み書き・計算など、日常生活や学校生活の上で頭脳を使う知的行動に支障があることを指す。

知的障害 -Wikipedia-

重複障害(ちょうふくしょうがい)とは、医学用語から派生したものとしている「障害」を2つ以上併せ有することをいう。ただし、厚生行政と学校教育法では、定義が異なる。

重複障害 -Wikipedia-


障害一つ取っても、その性質によってその方が辿る人生は個別化されていきます。

そのうえ複数の障害を持つ方の世界観は、一つひとつの障害を(表面的にでも)理解していたとしても想像するのが難しいものです。


たとえば手足が動かせない、声が出せない、言葉による意思表示ができないという方の生活というものは生活全般に支援が必要になりますし、その支援もどこまで本人の望む形で提供できているか確認しようがありません。

もちろんわずかな反応から「おそらくこれでいいのだろう」と推測はできますが、推測である以上支援者の「そうであってほしい」という願いを含まざるを得ないのです。ともすれば支援者の願いによって本人の望みがゆがめられている可能性もあるのです。



このような背景を持つ方の人生を考える時、どこまでいっても想像の域を出ません。


「今の生活が辛くないだろうか?」
「本当にやりたいことは何だろう?」
「自分(支援者)と一緒にいるのが幸せなんだろうか?」


支援すればするほど、想いが強くなればなるほど、支援する側はこのように思い悩むことになります。

そうしてどれだけ思い悩もうとも真にその答えが示されることはなく、苦悶の末に障害を持つ方々の人生を自分の「常識」にあてはめてしまうのです。



相手の意図が確認できないなら「自分の中にある「常識」という基準で相手のことを測れば相手の状態を理解できるのではないか」と考えるわけですが、そうした社会の常識が障害を持つ方々にとって「自分にはないものを求められる」という理不尽さをもたらすことがあります。


自分の身体が思うようにならないのは自分のせいではない。
言葉が出ないのも、使えないのも、コミュニケーションが取りにくいのも、そのように望んでなったわけでもない。
まして「今ここに在る」ことへの責任を負いようもない。


それにもかかわらず社会の常識によって「こうあるべき」という姿に縛られてしまうのですから、その理不尽さが障害を持つ方々の人生に与える影響の大きさは測りきれないものがあります。

< ここまでのまとめ >

障害を持つ方の「世界観」は個別化されており、社会の常識では測れない部分がある。

それを「わかろう」とするほど思い悩むため、「こうあるべき」という社会の常識の中へ彼らを縛りつけて理解しようとする。

ここに「自分にはないものを求められる」という理不尽が生まれてしまう。

常識を疑う

社会の常識が障害を持つ方々へもたらす負担がどれだけのものか。
その「常識」の中で生きられる僕たちがその負担をたやすく「わかる」というのは、実に表面的な理解でしかありません。


排せつや着替え、ご飯を食べるのすら人に頼らなければ「できない」という焦り、苦しみ、悲しみ、不安、不満、苛立ち、怒りを、それが当たり前のようにできる僕たちがどうして「わかる」と言えるのでしょうか。

もし疑似的にそのような体験をしたとしても、それは「いつか元通りできるようになる」という絶対的な安心感があるため真に迫ることはないのです。


このように僕たちの「常識」というのは、その対象が大人数いるというだけで実に限定的です。

自分が「当たり前」だと思うことが通用しない世界が確実にあり、その世界を理解するために「常識」が妨げになるとき、どのようなアプローチをしたらよいのでしょうか。


障害を持つ方々を「社会の常識」にあてはめるのか。
それとも障害を持つ方々にあてはまるように「社会の常識」を疑うのか。


冒頭でお話ししたように、「常識」は正しいとは限りません。
そして「常識」が正しい考えれば「自分は悪くない」と思い込むようになる、とも。

であれば、「常識を疑う」ことが正しさに近づける道筋だと見えてきますね。


以前の記事「かけがえのない利用者さんとの思い出②」でもお話ししたように、「出された食事で遊ばない」という常識を重複障害を持つ彼にあてはめてしまった結果、彼は孤立することになりました。


人一倍「人」が好きな彼が人から離される苦しみ、悲しみ、不安、不満、怒りを思えば、彼に対して一般的な常識を持ち出すことは不幸にしかなりませんでした。

「出された食事で遊ばない」という常識は確かに集団生活上のマナーとして守るべきものですが、それ以上に守るべき「『彼』という人」を守れていないという事実に目を向けるべきです。


「解決すべき問題点」と「人」をきちんと分ける。
そうすれば彼を取り巻く問題点を解決すれば彼を周りから引き離す必要もなくなるのです。

実際に僕がしたことは彼の側にいて「彼を信じて、頼る」という一点で、その信頼こそが「人好き」な彼の行動を変えていきました。


こうした結果を導き出せたのは「常識は正しい」と思い込まず、「常識のほうが間違っているのではないか」と疑う視点をもっていたからです。


とくに障害者支援においては社会の常識に当てはまらないからこそ障害者の抱える困難さが「障害」とみなされている部分が少なからずあることを、支援者は理解しておいたほうがいいでしょう。

でなければ、「障害を持つ方々の支援をしている支援者こそ彼らを障害者にしてしまう」という矛盾を生み出してしまいます。


支援者が無自覚に振りかざす「常識」が障害を持つ方々にとってどれだけ理不尽なものとなり得るか。
そのあり方は本当に「正しい」と言えるのか。


それは「常識を疑う」視点をもって初めて意識できるものなのです。

< まとめ >

「常識」は「それを受け入れられる人の正しさ」しか認めない限定的なもの。

常識を疑い視野を広げていくことが多くの人にとって「しあわせ」をもたらす。


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