自分と向き合おう! ①分析してみよう

メモの魔力

前回の記事「介護士が自分と向き合わないとどうなる?」で、自己分析について

「分析→検証→実践」(どうだったか→どういうことか→どうしていくか)

という流れで行っていくとお話ししました。


それでおおよその説明をしたつもりだったのですが、
友人から「いや、分析ってどうやるの?」というシンプルな疑問をいただきました。

なので今回から3回に分けて「分析・検証・実践」についてそれぞれ僕が行っていることをお話していきます。

まずは「分析」について

分析を考えるにあたって、まずは「分析」という言葉の意味について共有していきましょう。

分析(ぶんせき、: ἀνάλυσις、: Analysis、 : Analyse)は、

1.ある物事を分解して、それらを成立させている成分要素側面を明らかにすること。

2.物質の鑑識・検出、また化学的組成を定性的・定量的に鑑別すること。記事 分析化学に詳しい。

3.概念の内容を構成する諸徴表を各個別に分けて明らかにすること。

4.証明するべき命題から、それを成立させる条件へ次々に遡っていくやり方。

分析 -Wikipedia-


この中で僕が行っているのは1になります。

「ある物事を分解して、それらを成立させている成分・要素・側面を明らかにすること」で、介護現場で起きる様々なトラブルがどうして起きたのかを調べているのです。


ただ、「成分」とか「要素」「側面」と言われてもピンと来ないと思いますので、僕が具体的に何と何を分解しているかをお話していきます。


それは「事実」と「感情」です。

「事実と感情を分ける」と感情を手放すことになる?

「事実と感情を分ける」と聞くと、なんだか人らしさを奪われるような感覚になるかもしれません。

自分の心は確かに「感情」を持っていて「それを手放すなんてとんでもない!」と感じる方もいらっしゃることでしょう。

これまでお会いした方の中には「事実と感情を分ける」と聞いて感情をおろそかにするというイメージ(誤解)を持たれ、「その考え方は受け入れられない」と話を切り上げられた方もいました。


なので、そういった方にこそ落ち着いて聞いていただきたいのですが、「分ける」ことと「手放す」ことは違います。

事実を感情を「分ける」とは、ある物事から「事実」と「感情」を分ける。ただそれだけです。
分けられているだけなので、まだどちらも存在しているのです。

一方「手放す」とは自分の手元から解き放つ、離れるということですから、この場合は失うことになりますね。


この二つを混同して「分ける」=「手放す」と感じる方にたくさん出会いました。
そして僕自身も時に二つを混同しがちになります。

それほどまでに「感情」とは人に大きな影響を与えるものですから、まずは「分ける」と「手放す」は違うことなのだと心に落とし込みます。


ある物事から「事実」と「感情」を分けた後どちらも残っているため、感情を手放していない。
それが「分析」するうえで大切な前提となります。

事実と感情を分けられないと、どうなる?

ある物事から「事実」と「感情」を分ける。
文字にすると簡単そうに見えますが、実際にやってみると実に難しいことがわかります。


たとえば、下の画像を見てください。


どうでしょうか?


この画像を見たとき、あなたは何を思い浮かべたのでしょう。
おそらく「おいしそうなクッキーだなぁ~」と思われたのではないでしょうか。


そして「おいしそうなクッキー」と思った時点で「事実」と「感情」が入り混じっているのです。


この場合、「事実」は「クッキーの画像がある」であり、その事実に対してあなたが「おいしそう」と感じたわけです。

世の中には「クッキーが苦手な方」や「アレルギーの関係でクッキーを食べられない方」もいるため、「おいしそうなクッキー」という感じ方は誰にでも当てはまる事実ではないのです。



こうして文字にすれば「何を当たり前のことを」と思われるかもしれません。
しかし多くの人は実生活において「事実と感情を分ける」ことが驚くほどできていません。

自分の心が感じたことを事実だと誤解してしまうのです。


自分が感じることと、多くの人にも当てはまる事実は同じとは限らない。
しかし多くの人はそれを「同じもの」と誤解してしまう。

この誤解をそのままにしておくと「自分が感じていることは(事実なのだから)他人も同じように感じている(べき)」という考え方になじんでいくようになります。


「自分と他人は同じ」という考え方は、以前の記事「HSPという祝福」の「みんな違う」でお話ししたように


「(自分ができているのに他人が)できないのは頑張りが足らないからだ」


という厳しい見方を生み出すこととなり、他人を責める姿勢になります。

逆もまた然り、それは自分を責める姿勢にもなりますから自他ともに苦しみ続けるしかなくなります。

常に何かが不足しているような感覚に追い込まれ、自分も他人も責め続けてお互いにもがき続けることになるのですから。


あなたの周りに「なんだかよくわからないけどいつも怒っている人」はいませんか?

その人はもしかしたら「事実」と「自分の感情」を同じものだと思い込んで、しかし現実がそうなっていないことに腹を立てているかもしれませんね。


このような事態を招かないよう、「事実」と「感情」を分けて考える方法を学んでいきましょう。

「事実と感情を分ける」考え方

前置きが長くなりました。
ここから実際に物事から「事実」と「感情」を切り分ける方法についてお話していきます。


ここでは前提として物事は「事実」と「感情」によって構成されているとします。

「物事」≧「事実」+「感情」


目の前の物事の中で「誰にとっても当てはまる現実」が「事実」で、「その現象を捉えたときに生まれた心の動き」が「感情」です。

この二つを合わせた「人の心の動きを含んだ、誰にでも当てはまるかもしれない現実」が「物事」となります。

ただし「感情」はその現象を捉えるのが複数人の場合もあるので、「その現象を捉える人数の総和」と「事実」があってようやく「物事」と同じ量となる、と考えます。

ただ現実的に感情が総和になることは少なく、基本的には「物事」のほうが「事実+感情」よりも大きくなります

「事実」→「誰にでも当てはまる現実」
「感情」→「目の前の現象を捉えたときに生まれる心の動き」
「物事」→「心の動きを含む、誰にでも当てはまるかもしれない現実(ありのままの現実)」


「物事」の中に「かもしれない」という言葉が含まれるのは、その物事を捉える人の中には自分の感情によって「他の人とは違う現実」が見える可能性があるからです。


このように同じ「事実」を見ても「感情」が別の現実を捉えさせ「誰にでも当てはまる現実」だとは言えなくなるため、「物事」には「かもしれない」あいまいさが含まれます。


以上を踏まえたうえで「物事」を「事実」と「感情」に分けていくことになりますが、おそらく今のままでは何が「事実」で何が「感情」なのかがわからないかと思います。


そういう方にお勧めするのが「物事」から「感情」を差し引いて「事実」を浮き彫りにする方法です。

「物事」≧「事実」+「感情」ならば

「物事」-「感情」≧「事実(おぼろげな事実)」である。


自分が捉えている「ありのままの現実」から「自分の感情」を差し引いたとき、「事実」が見えてくるわけですね。

ただしその「事実」はまだ正確ではなく、おぼろげです。

おぼろげになるのはその「事実」がまだ「自分一人の事実」でしかなく、他の人から見れば違った事実が浮き彫りになる可能性が残っているからです。

写真も一歩引いて見てみると違った事実が見えそうですね

メタ認知と「感情の言葉」

「事実」について理解したら後は「感情」を残すのみですが、ここで「感情ってなに?」という疑問にぶつかるかと思います。

ここで言う「感情」は「心の動き」なのですが、普段の生活から「あ、いま心が動いた!」と自覚できることはあまりないかと思います。


「感情」を自覚するためには「心を動かす自分」とは別に「心の動きを観察する自分」を持つことになります。


先ほどのクッキーの例で言うと、

・「おいしそうなクッキーだなぁ」と思う自分
・そんな自分を「あ、いま自分はクッキーがおいしそうだと感じたんだな」と見つめる自分

という感じになります。

こうした「自分を観察する自分(もう一人の自分)」のことをメタ認知と言います。

メタ認知(英:Metacognition)とは、「メタ(高次の)」という言葉が指すように、自己の認知のあり方に対して、それをさらに認知することである。

メタ認知は「客観的な自己」「もうひとりの自分」などと形容されるように、現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握することができる能力である。

メタ認知 -Wikipedia-


メタ認知によって自分の心の中に「もう一人の自分」を立たせて、「心が何か感じたら教えてね」と頼む感じですね。

ただこれもやり過ぎれば監視されているような感覚になるため、「まぁまぁ落ち着いて」と自分をなだめる優しいイメージを持つと冷静に自分を見つめることができます。


メタ認知による「もう一人の自分」に「感情」を見てもらうにしても、そもそも「その感情が何なのか」がわからなければ何だかモヤっとしてしまいます。

「感情」と聞くと喜怒哀楽を思い浮かべる方が多いかと思いますが、ここではもう少し細かく見ていきます。


人が「今こういう気持ちだ」と感じるのは「みる・きく・かぐ・さわる・あじわう」といった五感の組み合わせによるものです。

先ほどのクッキーで言えば、「みる」ことで自分の中にあるクッキーの味やにおい、食感や音を思い出して「おいしそう」と感じるわけです。


そうなると「感情」は、これまで自分が経験してきたことから導き出される「言葉」によって認識されることになります。

「おいしい」という経験をして、その感情が「『おいしい』という言葉」なのだと知っているからこそ、次に同じような場面になったときに「おいしそう」と感じるのです。


こうした「感情の言葉」を知ると、自分が今どういう気持ちなのかを察しやすくなります。
実際にクッキーを食べて「自分の感情の言葉」が生まれる瞬間を体験してみれば、より深い理解につながるでしょう。

「感情の言葉」を知るには?

「感情の言葉」を、あなたは知らないうちにたくさん持っています。

自分の中にある「感情の言葉」を探り当てるためには、その日一日で何をどう感じたかを書くのが効果的です。

頭の中に思い浮かぶ言葉を「文字」として形にすれば、「このときはこう感じたんだな」といつでも読み返すことができます。


たとえば日記をつけてみるのもいいでしょう。
「いきなり日記はハードルが高いなぁ」と感じる方は一行日記がおすすめです。


「今日は○○があった。△△と思った」という感じで、その日の出来事と感じたことを一行書くだけです。
これなら2~3分もしないうちに書けますし、いますぐ始められます。

もし書いていて「もっと書きたい!」と思うのなら行数を増やしていくと良いでしょう。
そうして数を重ねていくことで「私はこういう時にこう感じるんだな」という傾向が見えてきますから、より自分の気持ちに気づきやすくなります。


「本当にそれだけで何か変わるの?」と思う方は、ぜひ一か月チャレンジしてみてください。

1ページ書き終わって読み返してみると「ああ、あの時はこうだったなぁ」とその時の出来事と沸き上がった感情を思い出せるようになっています。


そしてそのとき、「事実」と「感情」が分けられていることに気が付くのです。

まとめ 

分析を「ある物事を事実と感情に分けて「人はこういう時にはこう動く」という情報に変えて蓄える作業」と捉えると、どこまでが「事実」で、どこまでが「感情」なのかが理解できます。

それは人の「思い込み」を理解することにもなり、「あ、いま感情的になっているな。だったら…」と冷静になって対処できるようになります。


そしてその為には普段から「事実」と「感情」を分けて考えるよう「感情の言葉」を文字にして書き記し、感情を察知する「もう一人の自分」であるメタ認知能力を養っていきましょう。


僕自身は前田裕二さんの著書『メモの魔力 The Magic of Memo (NewsPicks Book) [ 前田裕二 ]』のアレンジメモで毎日1つ以上メモを取り、「分析・検証・実践」を行っています。

そのメモをInstagramを始めとしたSNSで発信していますので、よかったら参考にしてみてください。


メモが見たい方はこちらから ↓
ナカさん@しるしの魔術師(@magicofsign)のinstagram


例えば今回の記事に対してもメモを取っています。

メモの左半分は「ファクト(事実)」を書き出すスペースになっており、今回お話しした「分析」を思う存分練習することが出来ます。

また次回以降お話しする「検証」「実践」もメモの右半分で行うことになりますので、メモの魔力のメモ術を習得すると「自分と向き合う」には最適なツールになっています。


どんな内容も「自分でやってみる」ことで初めて学びにつながります。

記事を読んで「ほぉ~そうなんだ~」で終わらせず、今から始めて学ぶ楽しさを手に入れましょう。


紀伊國屋書店限定で「前田裕二『メモの魔力』モデル MOLESKINE クラシック ノートブック & ジェットストリーム ピュアモルト 4&1」も販売されています。

販売ページ:紀伊国屋書店


『メモの魔力』モデルの元となったノートやボールペンも紹介します。

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僕は自己分析で「メモの魔力」のメモ術をお勧めする
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