「介護ってなんだろう?」と悩んだら読み返す。何度でも。

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介護
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新年度が始まり、今月から介護を始められた方も多いかと思います。

それが仕事であっても家族介護であっても、介護をしてみて「介護ってなんだろう?」と考える瞬間が出てくるころかと思います。


なので今回は「介護ってなんだろう」の疑問に答えるべく、「介護」についてのお話をしていきます。

「介護」を知る

介護を知るにあたり、まず「介護」とは何か。その定義を押さえていきましょう。

介護とは、病人などを介抱し看護すること。

介護 ‐weblio辞書‐

看護とは、けが人や病人の手当てや世話をすること。
「介護」は一般的に「寝たきり老人の介護」など病院以外での介抱や看護についていうことが多い。

看護 -weblio辞書-

老齢または心身の障害により日常生活を営むことが困難な人に対し、生活の自立を図ることを目的として日常生活動作、家事、健康管理、社会活動の援助を行うこと

介護の用語辞典|かいごDB


こうして定義から見つめてみると、介護とは

老齢または心身の障害により日常生活を営むことが困難な人」に対して(対象)
生活の自立を図ることを目的」として(目的)
日常生活動作、家事、健康管理、社会活動の援助を行う」ことで(手段)
けが人や病人の手当てや世話をする」こと(実践)

となります。


介護の対象や目的、手段や実践を整理することで「介護で目指すもの」が見えてきますね。

高齢者介護と障害者支援は同じ「介護」?

なぜこうした定義を一番最初にお伝えするのかというと、たびたび介護を「高齢者」に限定して考えている方もいますし、「生活の自立を図ること」を見失ったまま介護をする方もいるからです。


高齢者介護も障害者支援も大きなくくりで言えば「介護」であって、障害者の存在を考慮しない介護というのは「福祉」の視点を欠く傾向にあります。


なぜなら「老い」によって介護が必要になるのと「障害」によって必要になるのとでは「福祉を必要とするまでの期間」に大きな差があり、障害者はこどもから大人へ成長する段階で「福祉」を必要とするケースが多いため、障害者支援ではより福祉の色を濃くした介護が求められるからです。

逆に「老いる」までの間、高齢者には「備える期間」が長く設けられているため、健康を維持したりお金を貯めていたりすれば介護サービスを受けるのにそこまで手厚い「福祉」を必要としない場合があります。

また近年では老後に関しての情報も集めやすくなっていますから、昔に比べれば無防備で老後を迎える方も減ってきています。


このように高齢者介護と障害者支援で「介護が必要となるまでの期間の差」があることを知らないまま「介護」を考えてしまうと「高齢者介護と障害者支援は同じ条件で構わない」と判断してしまい、手厚い福祉を必要とする障害者に対して様々な場面で不利な条件が提示されてしまいます。


介護を提供する側にとっては同じ「介護」であっても、提供される側は介護を必要とする背景が異なるため同じ「介護」ではないのです。


高齢者には高齢者に適した介護があり、障害者には障害者に適した介護があります。
定義として同じ「介護」を行うのだとしても、すべて同じにすればいいというわけではないのです。

高齢者介護と障害者支援は定義としては同じ「介護」だが

高齢者介護:「老い」によって介護を必要とすることから、備える期間が長い
障害者支援:「障害」によって介護を必要とすることから、先天的・後天的に関わらず備える期間が短い。


このような背景を踏まえたうえでそれぞれに適した「介護」を考えることが望ましい。

「自立支援を見失った介護」とは

また介護現場に赴けば、あるいは自宅介護であっても「生活の自立を図ること」、すなわち自立支援の視点を失った介護というものを度々見かけます。

その原因の多くは介護者の都合に相手を合わせてしまうことで起きています。


本来なら自分のことはできるだけ自分の力でやってもらうほうがその人らしい人生を送ることができますから、そちらを目指すべきです。

介護を必要とする状態になったからといって介護者が一から十まで全部やってしまえばいい、というわけではないのです。


しかし介護者にも介護者の生活があり、どうしても時間や業務に追われてしまいます。

そうなるとわずかに介助してもらうだけで後は本人にもできることを「急いでいるから」「待っていられない」と介護者が全部やってしまうわけです。


このとき、介護者は相手から「生きる権利」を奪っています。


「権利を奪っているだなんて大げさな」と思われるかもしれませんが、これは大げさでもなければ誇張しているわけでもありません。

介護を必要とする方は残された自分の機能を使って生活していかない限り、加速度的に「自分で生きる力」を失っていくのです。


たとえば着替え一つとっても、腕や足の曲げ伸ばしをせずに全部を介助でやってしまったら「筋肉や関節を動かす機会」が失われてしまいます。

介護者は「一回のことだから」と甘く見積もるかもしれませんが、一度全介助で介護者の生活・業務がスムーズにいくようになると「こちらのほうが楽だ」と判断し、次からも全介助で対応するようになります。



自立支援の視点がある介護者は介護を受ける相手そのもの、すなわち「ヒト」を軸に介護の価値を判断してなるべく相手が自分の力でやれるよう支援します。

着替えの例で言えば「相手がどうやったら自分の力で着替えられるようになるのだろう、そのために私は何をしたらいいのだろう」と考えるようになります。


対して自立支援の視点が欠ける介護者は相手が受ける介護、すなわち「コト」を軸に介護の価値を判断するため、「その時に必要とされている介護が達成されていればいい」と考えるのです。

着替えの例で言えば「着替えてさえいれば、それが介護者によるものであっても構わない」と判断するわけですね。


この両者が半年同じ方の介護を続ければ、前者は半年後もほぼ同じ能力を維持してもらうことができますが、後者は相手の能力を衰えさせてより多くの介護を必要とさせる状態にさせます。

さらに一つのことが出来なくなればそこから連なるように他のこともできなくなっていきます。

介護を受ける方の身体は同じなのですから、身体が動かせなくなれば他の介助でも介護の手が必要になり、さらに自分ではできなくなる…といった繰り返しが起きるのです。


では、「半年前にできていたことが今もできる」のと「今では思うようにできない」のとでは、どれだけ「自分の力で生きる」ことに差が出るのでしょう?

その答えが「生きる権利を奪っている」という根拠になります。


「私はいま介護する相手(ヒト)を見ているのか、それとも介護(コト)を見ているのか」


介護をするすべての方は定期的にそう問いかけてみると、身が引き締まる思いがするのと同時に「自分が介護をする意味」をハッキリと意識できるようになります。

自立支援を見失った介護は、相手から「生きる権利」を奪う。

ときおり「介護する相手(ヒト)を見ているのか、それとも介護(コト)を見ているのか」と自問して「自分が介護をする意味」を見直そう。

まとめ ~危うさと尊さ~

今回は介護の定義から「介護」について学べるようお話ししてきました。

介護歴がどれだけであっても「介護ってなんだろう?」と振り返る瞬間が来ますし、いつの間にか介護ばかりに目が行って介護を受ける相手が見えなくなってしまうこともあります。


だからこそ悩んだら基本に立ち返る。あるいは定義を知る。
根本から揺らいでしまえば自分がもたらす介護が知らず知らずのうちに相手の生きる権利を奪ってしまうのだから。

そういった危うさと同時に、相手に自分らしく生きてもらう尊さを兼ね備えているのが「介護」なのだと折に触れて思い出してみてください。


介護ブログの他にも、介護ニュース等などを取り上げるnote、読書にまつわるアメーバブログを運営しております。



また僕が介護を考えるうえで参考になった書籍を紹介しますので、よかったら一度読んでみてください。


本からの学びは揺るぎない自信へとつながっていきます。

介護を自分の「感情」頼りにするのではなく、知識や経験に裏付けられた「事実」と併せて行うことで、介護はすべての人を豊かにしていくことができるのです。


一緒に学んでいきましょう。

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