かけがえのない利用者さんとの思い出 ⑤成長への焦り

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介護
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前回に引き続き「かけがえのない利用者さんとの思い出」をお話していきます。

お互いに信じて、頼る。
双方向の信頼があって初めて人はありのままでいられる。

そのエピソードの続きとなります。

なお「障害」の表記については「障がい」とするのか「障害」「障碍」とするのかで様々な考えがあるかと思いますが、僕個人は「表記の仕方で障害にかかわる諸問題の本質が解決するものではない」という考えですので、私的立場においては以降「障害」の表記を用いることをあらかじめご了承ください。

信じられて、頼られて

彼の一件は、同じ派遣社員の先輩によって落とされた『派遣社員そのものの信用』に一石を投じる形になりました。

それまでは

「自分たちよりお金をもらっているのに大して役に立たない」

という目で見られていた訳ですが、彼の変化が僕の尽力に拠るところが大きいとみなされた事で良い方向へ変わっていきました。


具体的にはレクリエーション企画を任されたり
会議での発言を求められたり
送迎の運転を任されたり。

それまで求められなかった仕事を振られる事が増えていったのです。
それを何とかやっていく内に「どうやら彼は違うようだ」という認識に変わっていったようです。


彼を信じてその想いに頼った結果、僕が同じように信じて頼られるようになったのです。

なるほど、人を支えるというのは巡り巡って自分に反ってくる。
「情けは人の為ならず」という言葉の一面を知るまたとない機会となりました。

再び迫られる選択

それから一年半ほど経ち。
派遣元の会社と派遣先の施設との契約期間が切れることになりました。


この時僕に提示された選択肢は2つ。

1つは、派遣先の施設で正社員として働くこと。
もう1つは派遣元の会社が当時買収した介護施設で働くことでした。

僕は雇用条件を確認し、後者の選択肢はないなと思いました。
昇給も賞与も退職金もない所に働きに行くなら、断然前者で働くべきだと思ったのです。


なら前者、すなわち派遣先の施設の正社員になるか?
自分の心に問うた時、出した答えは「それは違う」でした。

働く場としては素晴らしい施設でしたが、ここでもやはり自分の成長が止まる気がしたのです。

彼のような利用者さんは数多く、一人ひとりに歩んできた人生があることはわかっていました。
そしてそういった方々の支援をすることが尊いというのも。


だからこそ、考えるのです。
「このまま確かな能力もないままでいいのか」と。


このとき僕は「介護福祉士」に標準を合わせていました。
介護知識も技術も、今後介護の仕事をやっていくうえでは足りていないような感じがしていたためです。

そしてこの資格を手にするには半端な覚悟では駄目で、しっかりと勉強して挑むべきだとも。


その為に僕は第三の選択をしました。
介護福祉士になるために派遣社員を辞め、「働かない」という選択を。

エピローグ ~成長への焦り~

介護福祉士。
介護を生業とする者にとって、それは目指すべき「頂き」です。

何しろ国家資格です。
国がその知識・技術を認めるということは、人から信用されるうえでこの上ない指標となります。

介護の採用条件も介護福祉士の資格を持っている事が前提の所もあり、この資格の有無は介護という業界で生きていく為には避けて通れないものです。


それを目指すには半端な覚悟では足りない。
今ある仕事を辞めてでも勉強に集中し、確実に一度で合格しなければならないと当時の僕は考えていました。

それは大学時代に資格試験を10回以上受けてきた経験から、試験は一回で受からないとモチベーションが落ちてしまい二回目以降がなかなか受かりにくい傾向にあるとわかっていたからです。

半年に一度の試験でさえ落ちてしまったら半年間また同じ勉強をしなければならないわけですから、とてつもなく時間を無駄にしているような感覚になります。


ただでさえ大学を二年間留年している僕には「これ以上社会人として後れを取るわけにはいかない」という焦りがありました。



介護福祉士の試験には筆記と実技があり、当時は実技免除の講座が開かれていたのでその年の春に申し込んでいました。
最終日に試験がありましたがギリギリのところで通り、残すのは筆記試験のみという状況での退職です。

後ろ髪引かれる思いはあるものの「成長を止めてしまうと後は腐ってしまうのみ」という考えでいたので、前へ進む道を選びました。


僕としては派遣社員が続けられるならその道を選んでいたかもしれません。
しかし状況がそれを許しませんでした。

派遣元の会社としては次の派遣先を探すよりも買収した会社の施設へ行かせたいようだったので、そこで揉めて時間を取られるくらいなら潔く辞めた方が気持ちよく立ち去れるだろうと思いました。


そうして迎えた派遣社員としての勤務最終日は、前々から辞めることは利用者さんには伝えられていたこともあって、さんざんゴネられたり泣きつかれたりしました。

忘れがたい利用者さんのいた施設でもそうでしたが、やはり立ち去るというのは罪深いものです。
どういう事情であれ、彼らの期待を裏切ることには変わりないのですから。


なので、そのことを自覚したうえで僕は僕の道を行く。
彼らの悲しみが一時のものだとしても、それを感じさせた罪をちゃんと背負って先に進む。

でなければ心の隙を生んでしまう。甘えが出てしまう。
自分を厳しく律する為にも彼らの感情と向き合い、背負うべきだ。


そう、感じました。


彼を始めとした障害をもつ方々との日々は本当に輝いていました。
自分が「コミュ障」なのを忘れるほど、人とのつながりを感じられました。

この一年半あまりの日々はとても暖かくて大切で、だからこそ、ここに甘んじていてはいけない。
ここで足を止めてしまったらこの暖かさの中に埋もれてしまうと、それは結局誰も救わないのだと考えたのです。
 
 
そしてそう考えるからこそ、僕は「裏切り者」だったのでしょう。

一つ処で収まることを良しとしない。
それを腐敗と嘆いてしまうから結局孤独になっていくのです。



信じて頼り、信じられて頼られた彼らの手を放したその時から、僕は自滅への道をゆっくりたどっていくことになったのです。

~ おわり ~

それからのこと ~枷をはめる~

その後、僕は介護福祉士の筆記試験に合格するために三か月間勉強に明け暮れました。

自分の選択を間違いにしないよう必死だったこともあり、翌年の試験を無事合格して介護福祉士になったのです。

手元には介護福祉士の合格証があり、僕の介護知識と技術は国が保証するものとなりました。
それ自体は社会に適合できなさそうな僕にとって大きな意味がありました。


ただ、その為に何を失ったのか。


もう、忘れがたい利用者さんの元へは戻れない。
もう、かけがえのない彼の元へは帰れない。
その事実だけは、僕がどれだけ成長しようとも変わらない。


彼らとの間に結んだ「きずな」を自ら手放した僕は、この後「信頼を裏切った罪」を罰せられるかのように生きていくことになります。


退くことはできない。
「そうするならなぜ彼らの元を去ったのか」を問われるのだから。

逃げることはできない。
誰よりも自分が「逃げることなど許されない」と自分を見張っている。

もはや朽ちるまで駆けるより他ない。
「自分が傷つき果てる姿を見せることでしか自分は許されないのだ」と自分を責め続ける。


こうして。
僕の心臓には「枷」がはめられました。

そしてその枷は、介護福祉士になり正社員として働き始めた直後からゆっくりと、しかし着実に僕をむしばんでいくようになったのです。

FineGraphicsさんによる写真ACからの写真

そこからの話はまた別の機会にお話ししようと思いますが、続きが気になる方は

想い紡ぐ介護士になるまで

こちらに大まかな流れを書いていますので、よかったらお読みください。


また大まかな流れを先に読んだ方も改めて読み返してみると、箇条書きにされた概要のなかにどれだけのものが含まれているのか、以前よりも真実味をもって感じられるかと思います。

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