高齢者介護をして大変だった3つのポイント

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介護
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前回の記事「高齢者介護をして良かった5つのポイント」では「良かったこと」に焦点を当て、誰にとっても欠かせない「なぜ『今』が大切なのか」のお話しをしました。


今回は介護の中でも「高齢者介護をやっていて大変だったこと」を3つ、その時僕がどのように対処したかも併せて紹介していきます。

その3つとは

1.新たな「自分の世界」を受け入れてもらうこと
2.「嘘も方便」であること
3.命と向き合うこと


という並びになります。順にお話していきますね。

新たな「自分の世界」を受け入れてもらうこと

高齢の方に総じて言えるのは、今日まで生きてきた集大成ともいえる「自分の世界」を持っておられることです。

朝起きてから夜眠るまでのルーティーンに限らず、判断基準や行動原理がその人なりに一貫しているわけですね。


今まではその「自分の世界」の中で問題なく生活できていたのですが、何かの折に生活の一部ないしほぼ全てに介助が必要となってしまったことから「介護」が始まります。


介護は大きく分けて「介護サービス」と「家族介護」の二つに分かれます


これは「誰かがやる」か「家族がやる」かの違いで、介護保険制度を利用する介護サービス、制度外のサービスもあれば、親が子を、子が親を、または配偶者が介護をするケースもあります。


最近では家族介護において「介護離職」「ヤングケアラー」が社会問題となっています。

介護離職(かいごりしょく)とは、家族を介護するために労働者が仕事を辞めることをいう。

高齢者人口の増加とともに、介護保険制度上の要支援・要介護認定者数は増加している。今後、団塊の世代が70歳代に突入することに伴いその傾向は続くことが見込まれる。

介護離職 -Wikipedia-

ヤングケアラーとは、通学や仕事のかたわら、障害や病気のある親や祖父母、年下のきょうだいなどの介護や世話をしている18歳未満の子どもを指す。

家族の病気や障害のために、長期のサポートや介護、見守りを必要とし、それを支える人手が十分にない時には、子どもであってもその役割を引き受けて、家族の世話をする状況が生じる。介護のために学業に遅れが出たり、進学や就職を諦めたりするケースもあるといい、実態の把握が急がれている。

ヤングケアラー -Wikipedia-


このような背景もあって、介護を受ける側はそれまでの「自分の世界」を崩さざるを得なくなります。


それまで自分一人でできていたことも、それを支えてくれる人の都合に合わせなければできなくなるわけですから、そこにはどうしても不満が溜まってしまうわけですね。

「介護をしていて暴言・暴力を受けた」という言葉の裏には少なからずこの不満が関わっていて、介護ではこの「不満の受容」をどれだけ適切に支えられるかが問われます。


誰だってそれまで自分でできていたことが出来なくなることに不満や不安を感じます。

しかしどうやら自分は回復しないようだ。受け入れるより他ない。
でも受け入れがたい。どうにかすればまた元通りになれるのではないかと思いたい。

そのような葛藤を理解したうえで、それまでの「自分の世界」を当事者本人から崩していけるよう支えていくのが介護なのです。


「不満の受容」と言っても、それはもちろん「暴言・暴力を甘んじて受け入れるべき」という話ではありません。そんなことをしていたら介護者の心身がもちません。

人間関係の基礎は「お互い様」であり、どのような立場の人であってもお互いに尊重されるべきですから、自分が嫌だと感じるものは毅然とした態度で断るべきなのです。


そうして「断られる」ことで瞬間的に怒りをあらわにすることもありますが、それは「自分の世界」を作り直すために必要な『痛みをともなう過程』です。

当人がその痛みを恐れていては「介護を受けなくてもよかった自分」を崩せずに不満を抱えては暴言・暴力を繰り返すようになりますし、介護者が恐れていては「不満の受容」を導き出せずに暴言・暴力の被害者になり続けることになります。

その状態はいつまでも耐えられるものではありませんから、限界を超えてしまったとき介護者がやり返す事態も生まれてしまいます。


このように「不満の受容」を避けた先に潜むのは「虐待」なのです。

虐待(ぎゃくたい、英:abuse, maltreatment)とは、繰り返しあるいは習慣的に、暴力をふるったり、冷酷・冷淡な接し方をすることである。

具体的な内容は様々で、肉体的暴力をふるう、言葉による暴力をふるう(暴言・侮辱など)、いやがらせをする、無視をする、等の行為を繰り返し行うことをいう。

虐待 -Wikipedia-


これではお互いにとって不幸です。
一時の感情を受け入れられないがゆえにお互いを傷つけ合う未来というのは避けなければなりません。

そして介護を受ける側は「介護が必要となった自分」と向き合うのが先決ですから、介護をする側から歩み寄る姿勢が大切です。


新たな「自分の世界」は一人ではたどり着けないものなのですから。

介護をうける側は、それまでの人生で培った「自分の世界」を崩さざるを得ない状態であり、ここには受け入れがたい現実との葛藤が生まれる。
そのような葛藤を理解したうえで、それまでの「自分の世界」を当事者本人から崩していけるよう支えていくのが介護である。

「嘘も方便」であること

基本的に「嘘をつく」というのは褒められたものではありませんが、しかし「正しさ」が必ず人を救うとも限りません。時と場合によっては嘘をつく方が人を救うこともあります。

前回の記事「高齢者介護をして良かった5つのポイント 「創意工夫が問題を解決する」と教えてもらった」でお話しした「毎晩息子さんに電話したくなる認知症の利用者さん」のケースも、家族さんに電話をしているという「嘘」の状態を作ることで本人が安心して眠れる環境を整えました。(そしてその「嘘」を後に「真実」へ変えていきました)


これを「嘘をつくのは良くない」という「正しさ」で判断し、本人の望むように毎晩電話をつないでいたらどうなったでしょう?

仕事が終わって家に帰った息子さんが毎晩最初にやることが「親からの電話を受ける」というのは気が滅入ってしまったでしょうし、介護士さんも電話の為に毎日自分の休憩時間を削らなければならなかったでしょう。

その方の状況を分析してみれば「不安を解消したい」というのが本当の願いであって、電話をする「内容」に意味はなかったものですから、息子さんに電話をしたという「本人にとっての現実」さえあれば良かったのです。


このように「嘘も方便」ということが介護現場では数多くあります。

嘘も方便とは、嘘をつくことは罪悪であるが、目的を果たすためには嘘が必要な場合もあるということ。
「方便」は目的を達成するために講じられる便宜的な手段のこと。

嘘も方便 -weblio辞書-


「嘘をつく」ことが罪悪なのは、その嘘によって「傷つく側」が生まれてしまうからです。

相手のことを信じていたのに嘘をつくことによってその信頼を裏切ってしまう。信用を失ってしまう。それが罪深いということですね。


ここをもう少し細かく見ていくと、真に罪なのは「相手を傷つけること」であって、嘘をつくことによってそうなる可能性が高いからこそ「嘘をつくのは罪悪である」となっているわけです。

であれば「相手を傷つけること」が避けるべき最優先事項ということになり、その為の手段として何を選ぶかは状況次第と言えますから、介護をする側はその状況を「事実」に基づいて分析する力を求められることになります。


以前の記事「自分と向き合おう」の「①分析してみよう」でお話ししたように、人は誰にでも当てはまる「事実」と自分の「感情」を分けられずに「自分だけの現実(物事)」を「事実」と誤解しがちです。


「自分だけの現実」から相手の事情や気持ちを推し量ったところで「自分の感情」というフィルターを通しての判断になりますから、どうしても自分にとって都合の良い判断をしてしまいます。

そのような偏った判断で介護をしていけば、その判断の元となる「介護する側の感情」に相手を依存させることになります。


本当はこうしてほしいのに、相手を怒らせてしまうから言えない。
機嫌を損ねないように言うことを聞かなくてはいけない。
自分の気持ちは抑えなくてはいけない。


それが意図的かどうかに関わらず感情に寄った判断で行われる介護では「自分の感情によるコントロールを仕向ける形」となります。


「私の言うことを聞いてください」と。


この状況に「人としての尊厳」も「自立への支援」もありませんから、介護する側は「事実」と「感情」を分けて、その両方ともを丁寧に扱うことが求められるのです。

「事実」として何が起きているのか。そこにどういった「感情」があるのか。
また自分はどう感じるのか。その事実がどう見えるのか。


その一つ一つを丁寧に分けることで「どうしていけばいいのか」という解決策が見えてくるのです。


そうして見えた本当の問題を解決するのに「嘘をつく」ことが求められることもあります。

このとき「嘘をつくのは(何が何でも)悪いことだ」と自分の感情に従って「正しくあること」に固執すれば、自分の感情は救われるかもしれませんが、それでは相手の解決したい問題を解決できませんから相手は傷ついたままです。


一方で「事実」から「今回は嘘をつく方が相手を傷つけずに問題を解決することができる」と判断ができれば論理性をもってその選択ができますし、実際に相手の問題を解決する可能性はグッと高くなるのです。

なぜなら相手が問題を抱えているのは「事実」の領域であって、それを見る側の「感情」の領域ではないからです。同じ「事実」の領域で解決策を考えていかなければ解決の可能性を高められないのです。

「事実」から考えれば「事実」の領域に、「感情」から考えれば「感情」の領域に思考が収まっていくのは自然の流れなのですから。


「嘘は方便」というのは、「相手を傷つけないこと」を目的とした場合に「事実」から導き出した解決策として「嘘をつく」という手段を選ぶことになります。

そして介護をする目的とは「その人が自分らしく生きていくため」といった「ヒト」を主軸にしたものであるべきなのです。


なぜなら、いまは介護する側であっても遠い未来には誰もが介護を受ける側に回るからです。


自分が「ヒト」として扱われたいのか、介護ありきの「コト」として扱われたいのか。


そのことを思えば介護する側が自分の「感情」ばかりに囚われないで「事実」から本質を見出す力を今から身に付けておくことは急務と言えますし、その力を身に付ける手助けになる本を二冊紹介しておきますので、ぜひ読んでみてください。

一般常識として嘘をつくことは褒められたことではないが、「正しさ」が必ず人を救うとは限らないことも理解しておく。

嘘をつくことが罪なのは「相手を傷つけるから」であり、介護をする側は「相手を傷つける」状況を「事実」に基づいて分析し、個人の尊厳や自立支援を適切に行うことを求められる。

「嘘も方便」とは「相手を傷つけないこと」を目的とした場合に「事実」から導き出した解決策として「嘘をつく」という手段を選ぶこと

命と向き合うこと

以前の記事「利用者さんとの別れをどう受け止めたらいい?」でもお話ししたように、介護を続ければいつか必ず別れが訪れます。


その事実はあまり意識したくないものですし、できるならその直前まで認めたくないものでもあります。相手と過ごした時間が長いほど別れがたい想いは強まり、その事実を連想させるものを遠ざけようとしてしまいます。

しかしそれは介護を受ける側にすれば「避けられない事実」を「避けられてしまう」ことになりますから、その時期が近づくたび疎外感を覚えるようになります。

疎外感(そがいかん)とは、疎(うと)まれ、排除されているという感覚。

疎外感 -weblio辞書-


介護を受ける側こそ自分に訪れる「別れ」を避けたいというのに、介護する側が先に避けてしまえば「あなたが先に折れるのか」と裏切られたような感覚になります。

それまで親しく関わってきたのに「別れ」を意識する時期が近づいてきた途端によそよそしくなる。
その「よそよそしさ」が自分に訪れる「別れ」を連想させてしまう。
別れがもたらす恐怖、不安、寂しさを紛らわしたい、解消したいと思うのに側にいてくれない。

そのような態度を取られてしまえば人生の最期に耐えがたい孤独にさいなまれることになります。



介護する側が相手の「別れ」について考えずに「自分が辛いから」と避けてしまうのは介護を受ける側を今を生きる「ヒト」ではなく、今を生かすための手段(介助)を施す「モノ」として扱うことと同じです。

そして「生物である以上いつか必ず肉体は滅びる」ことは確定しているにもかかわらず、その事実から目を背けて「別れ」を無いものとして扱ってしまうのは、その状態に向かおうとしている方をも無い「モノ」として扱ってしまうのです。


たとえどれだけ「そんなつもりはない」と心から思っていたとしても。
ほんの一瞬手を差し伸べるのが遅れるだけで、相手は「見放された」と疎外感を覚えるのです。


このような背景から介護を続ける以上「別れ」に対して自分なりの答えを持つことは欠かせません。

仕事で介護をするにしても、家族親族の介護をするにしても「別れ」が近づくにつれて介護をするのが怖くなったり不安になったりすれば、その姿を見せられる相手の方がより辛くなってしまいます。


想像してみてください。

自分には「避けがたい別れ」が近づいて、そのうえ自分と関わる人にその恐怖を与えてしまうというのはどれだけ悲しいのでしょう。どれだけ苦しいのでしょう。

「自分さえいなければ」と思わずにはいられないけれど、その「別れ」が明日にでも訪れるかもしれない怖さをどうすればいいのでしょう。


もしその葛藤が自分の態度一つで和らげられるのだとしたら


あなたは命から目をそらしますか?
それとも向き合いますか?


いま心が感じたものが「答え」であり、介護の向き不向きはその「答え」に集約されます。

介護する側が相手の「別れ」を避けようとしてしまえば相手に耐えがたい孤独感を与えることになる。

そのため、介護を続ける以上「別れ」に対して自分なりの答えを持つことが欠かせない。

まとめ

一言に「介護」と言っても、そこに含まれるものは多岐に渡ります。

それは介護が「ヒト」を中心に行われるものだからであり、「ヒト」と向き合わないものは介護とは呼べないとも言えます。


だからこそその「ヒト」がもつ「世界観」や「感情」、「命」について理解を深め、自分なりの答えを持つことが大切なのです。

この学びから目をそらせば「介護分野」を育てられないため、将来自分が受ける介護の質もそれ相応とならざるを得ません。


これからも僕の学びをお伝えしていきますので、一緒に介護の学びを深めていきましょう。


介護ブログの他にも、介護ニュース等などを取り上げるnote、読書にまつわるアメーバブログを運営しております。



また僕が介護を考えるうえで参考になった書籍を紹介しますので、よかったら一度読んでみてください。


本からの学びは揺るぎない自信へとつながっていきます。

介護を自分の「感情」頼りにするのではなく、知識や経験に裏付けられた「事実」と併せて行うことで、介護はすべての人を豊かにしていくことができるのです。


一緒に学んでいきましょう。


【併せて読みたい記事】
自分と向き合おう! ①分析してみよう
利用者さんとの別れをどう受け止めたらいい?
高齢者介護をして良かった5つのポイント


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