誰が「福祉」を切り捨てるのか

介護

介護・福祉の仕事を続けていくと利用者・家族の要望に満足に応えられない時が出てきます。

心情としては「何とかしたい」と思う反面、「それはさすがにわがままなだけじゃない?」と思うときもあります。

今回はこうしたやり取りの背景にある「福祉の切り捨て」についての僕の考えをお話していきます。

「福祉の切り捨て」とは

まず「福祉の切り捨て」についてお話しします。


福祉の切り捨てとは、国が憲法で定められた責任(生存権による公的扶助)を最小限にとどめて国民が求める社会保障サービスを十分に行わない状態を指します。

公的扶助に関しては以前の記事「ベーシックインカムにみる「自助」のあり方 公的扶助について」を読んでいただくとして、財源などを理由に社会保障制度を小さくしていけばそのしわ寄せは国民が受けることになります。


それまで無料で受けられていたサービスに「自己負担額」が設けられたりサービスそのものが廃止されたりすれば、足りない分は民間企業か個人で解決するよりほかありません。

金銭的に余裕のある家庭は民間企業のサービスで対応できるかもしれませんが、多くの家庭にそのような余裕はありません。


たとえば野村総合研究所の2018年の調査によれば、日本の富裕層はおよそ127万世帯であり全世帯の約2%になります。

純金融資産保有額が1億円以上5億円未満の「富裕層」、および同5億円以上の「超富裕層」を合わせると126.7万世帯で、内訳は、富裕層が118.3万世帯、超富裕層が8.4万世帯でした。

出典:野村総合研究所


仮に準富裕層を「金銭的に余裕がある」とみなしたとしても全体の8%に留まり、家族構成や家庭の事情を踏まえるとその割合はさらに少なくなると予想されます。

つまり大多数の家庭は金銭的に社会保障制度を必要としており、にもかかわらず社会保障制度の縮小を行えば十分な福祉サービスを受けられずに生活が困難になっていくということになりますね。


また「福祉の切り捨て」を現場のレベルで捉えると「報酬は発生しないがその人に必要なサービスを行うか」になります。


社会保障制度の枠内に収まるサービスは「報酬のある仕事」としてどのような施設でも行いますが、それ以外の部分についてはその施設や職員個人の判断に委ねられます。

この辺りは特色がよく表れる部分で、「その人に必要なのだから惜しまずやるべし」という施設もあれば「収益を上げるために施設運営をしているのだから、そこはサービス料を徴収して行うかやるべきではない」という施設もあります。


ただ、度が過ぎれば施設として成立しなくなります。

「願いをかなえる装置」とは

もし惜しまずサービスを提供すれば、施設・職員の提供するサービスの価値は限りなく「無料」に近づきます。(無価値とは別に)


無償でサービスを行えば当然その分の収益はなく職員の給料が増えることはありません。しかしそのサービスを行うこと自体は人件費や設備などの諸費用が掛かりますから、その分の負担は施設が背負うことになります。

どれだけ職員へ手厚い施設であっても収益がなければ施設を存続させられませんから、無償のサービスに対して職員に報酬を与えることは通常ありません。一時的な報酬を出せたとしても継続して払い続けられるだけの財源を確保できない以上、「福祉の実践者としての資質」として無償奉仕を求める流れになっていきます。


となれば職員としては「報酬も出ないのに何故ここまでしなくちゃいけないんだ」と考えますし、この状況に対して不満と負担を抱えることになります。

よほど福祉への熱い想いがなければそのような職員が提供するサービスの質は低下せざるを得ませんし、それによって利用者の満足度が低下することも避けられません。


加えてこの状態が続けば利用者側は本来報酬をもらえるはずのサービスですら「なぜお金を払わないといけないんだ」と思うようになり、施設側と利用者・家族側に大きな溝が生まれます。

次第に施設内でも上層部と現場で反発し合い、現場職員が辞めて十分な人手が確保できず施設の存続が危うくなる、という事態になりかねません。


こうなってしまうと利用者・家族、施設、職員の三つ巴になってしまい、お互いが自分のことだけを考えるようになってしまいます。


利用者・家族は「いかに自分たちの負担なくサービスを提供させるか」に執心し、

施設は「利用者・家族をどれだけ居付かせられるか、職員をどれだけ利用できるか」に苦心するようになり、

職員は「働くメリット・デメリットを天秤にかけて、いかに取り分を奪うか」を見定めるようになります。


この時、誰も相手を「ヒト」として見ていません。


ただ自分にとって都合の良い「コト」としてしか相手を見ていませんから、お互いに「自分にとっての『願いをかなえる装置』」になっているのです。

「想いの方向性」を誤解しないために

相手のことを同じ「ヒト」と見ていないわけですから、自分の望みがどれだけ相手を苦しめてしまうか想像ができません。

それはなぜかと言うと、人は「ヒト」には想いを通わせられますが「コト」には想いを寄せることしかできないからです。
言い換えれば「ヒト」への想いは双方向で、「コト」への想いは単一方向(一方的)ということです。


そして介護に携わる人の多くはこの「想いの方向性」を誤解しているのです。


たとえば職員で見た場合。

本来「ヒト」への働きかけである介護は双方向、すなわち「お互い様」であるにも関わらず「自分の想い」ばかりを相手に押し付けてしまいます。たとえその想いが好意的であってもなくても「相手の想い」の入る余地を設けていなければ同じことで、「自分の想い」が「相手の想い」よりも強く上であると態度で示しているのです。

このとき介護をする人は自分の想いを寄せているだけですから、相手を自立した「ヒト」としてではなく介護を実践する「コト(装置)」としてみなしています。「介護ありき」で相手の存在をとらえ、「自分の思うように介護ができるかどうか」で相手を評価するようになるわけですね。

そのような職員が行う介護というものはマニュアル通りであり、事務的であり、相手の想いを受け入れる余地を与えようとしません。それを「わがまま」と断じて抑えるように促し、時に指示するのです。


「私の言うことを聞いてください」と。


こうして職員は「あの人は(私の言うことを聞いてくれる)良い人だ」「あの人は(全然私の言うことを聞いてくれない)ダメな人だ」と相手を自分の都合で区別するようになり、自分にとって働きやすい環境を整えようとします。

その中でメリット・デメリットを天秤にかけて「割に合わない」となれば、ためらうことなく辞めていくのです。

次に施設で見た場合。

施設が収益を上げるためには利用率を上げ諸費用を抑える必要がありますから、利用者・家族には「いかに居付いてもらうか」、職員には「どれだけ利用できるか」を求めます。

施設としては「利便性」を追求する形となるので、外向けには使い勝手がよく、内向けには使役することに特化するわけですね。


利用者・家族の「使い勝手」を追求すれば他にはないサービスを「お得に」提供していくことになりますから、そのしわ寄せが職員に向くことは先ほどお話しした通りです。そのため反発力を生み出し職員が次々と辞めていき、居残る職員は派閥を作って「自分だけは守ろう」と躍起になりますから外面と実態が乖離していきます。


そしてそれは間もなく施設の外に漏れだしますから、利便性を追求する形では施設存続は難しいと言えます。


この「施設の外に漏れだす」理由については以前の記事「介護士と家族の関係性とは?」でもお話ししたように、介護士と利用者の間では良しとしていることも家族には通じない可能性があること、家族が施設の質を判断するのは「目に見える範囲」であることが挙げられます。

そして施設が職員を「どれだけ利用できるか」という「コト」で見ている以上職員側が施設や利用者・家族に対して十分な配慮をする動機が生まれにくくなるため、職員は「実情が外に漏れだす危険性」を自分の損得でしか判断しなくなります。


このとき職員もまた施設を「どれだけ利用できるか」で見るようになるわけですから、この点でも「お互い様」だと言えます。


最後に利用者・家族で見た場合。

施設や職員に求めるのは「いかに自分たちの負担なくサービスを提供させるか」ですから、両者がどれだけ苦しもうとも気にしません。極端なことを言えば施設が存続するために必要な財源について想いを馳せることはありませんし、まして施設で働く職員の心労について気を配ることもありません。

「いやいやそんなことは…」と思われるかもしれませんが、利用者・家族が無自覚に無償のサービスを求めている場面は多々あります。


「ちょっとしたお願いごと」として。


頼んでいる側は「これくらいのことならしてくれるだろう」と軽い気持ちでお願いしているかもしれませんが、その「お願い」をかなえるためには施設側の持つ貴重な「資源」を使わなければなりません。


それが送迎であれば車輛とそれに付随するガソリン代などの経費、運転手の人件費等を。
「庭の草むしり」に代表される「家の仕事」であれば介護士の時給や労力、その時間にその介護士が稼ぐはずだった収益等を。


そういったものを「ちょっとしたお願いごと」と軽視することが施設・職員側にとってどれだけの負担になっているかを想像して「お願い」しているのでしょうか。

もし想像できていてなお「お願い」するのであれば先に述べたように施設・職員を「願いをかなえる装置(コト)」として見ている証拠になりますし、想像できていなかったのであれば自分たちの「ちょっとしたお願いごと」に施設・職員側がどれだけ心を砕いて事に当たっているかについて想いを馳せてほしいと願います。


なぜなら介護・福祉の業界が構造上収益をあげにくくなっていることは以前の記事「「勉強する介護士」が少ないのはなぜ? ~介護の賃金は上がりにくい~」でお話ししたように、介護保険サービスの報酬は国の税金を財源とした定額であるためです。そこに配置基準や指定などの細かいルールが課せられているわけですから、施設運営には並々ならぬ労力・努力が求められています。

加えて「2020年版 モデル年収平均ランキング(出典:マイナビ転職)では介護職・ヘルパーの年収平均は419万円で312職種中284位であることが発表され、この実態を考えれば職員の時間と労力を無償で使うことは職業人としての寿命を縮める結果につながることは想像がつきやすいかと思います。


自分が利用する、もしくは家族が利用する施設・職員を「ちょっとしたお願い事」で追い込めばその余波は必ず自分たちに返ってきます。
施設利用を切られたりサービスがおざなりになったりと、相手の事情を慮っていなかったがゆえに不利益・不都合を被ることになるのです。


なぜなら「頑張っても報われない」ことに自分たちの資源を費やせるほど時間や労力、ましてその理由すらないのですから。

「福祉の切り捨て」と「公共の福祉」

ここまでの話を聞けば大抵の方は「言われてみればそうだよなぁ…」納得されますが、相手を「願いをかなえる装置」とみなしている人にとっては耳の痛い、不都合な話ですから「それは違う」と言わざるを得ません。

もし認めてしまえばこれまでの行動を反省しなくてはいけませんし、この先自分たちが楽(得)できなくなるわけですから、それは是が非でも食い止めたいわけですね。

そして今後も相手を「願いをかなえる装置」として機能させる魔法の言葉として「福祉の切り捨て」を用いるのです。


「自分たちに十分な保障がなされていないではないか」と。


「福祉の切り捨て」を職員が用いれば「自分たちがいなくなれば介護・福祉の担い手がいなくなり皆さんが困ることになります」となり、

施設が用いれば「施設がなくて困るのは皆さんのほうですから、心添え・力添えを惜しまないでください」となり、

利用者・家族が用いれば「福祉の実践者が私たちの必要とするサービスを行わないのは不適切ではないか」となります。


実のところ、この主張自体には(論理的に)おかしなところはありません。

介護の担い手が居なければ社会福祉は実践されませんし、施設がなければサービスを必要とする人に福祉サービスを届けられませんし、必要とする福祉サービスがなければ社会に求めるのは国民としての権利でもあります。


しかしそれは「社会全体の幸福」を前提としたうえでの話です。

個人の都合を優先させるための論理ではなく、あくまで社会全体の共通の利益のために「福祉」があり、「福祉の切り捨て」の是非を問う権利があるわけです。


これは日本国憲法第12条の定める自由権及び人権を保持する義務、その濫用の禁止についての規定、また公共の福祉から理解を深めることができます。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

日本国憲法第12条 -Wikipedia-

公共の福祉(こうきょうのふくし)とは、日本国憲法第12条第13条第22条第29条に規定された人権の制約原理である。

公共の福祉 -Wikipedia-


これをもう少し簡単な言葉にすると

「それぞれが自分の都合で権利を主張したら他の人の権利を奪ってしまうから、社会全体が良くなるために権利を利用するよう皆さんに責任を持たせます」

ということになります。

「福祉」はあくまで公共、すなわち社会全体の幸せを指すのであって個人の幸せを直接指すわけではありません。
社会全体で見れば「社会全体の幸せ」の先に「個人の幸せ」があり、その逆ではないのです。

故に一個人や一施設が「福祉の切り捨て」を語る場合、「社会全体の幸せ」に関わる大事であれば正当ですが、それぞれの都合によって語っているのであれば「福祉」というにはまだ十分ではありません。

この状態で「福祉に切り捨てられている」と言うのは早合点であり、まずは社会の中で同じような問題を抱える人々を集めて「社会全体の幸福に関わる事柄」である証明をするのが先なのです。


ここを誤解したまま「これは福祉の切り捨てだ!」と声高に叫ぶのはそうであってほしいという自分の「感情」であり、誰にでも当てはまる「事実」ではありません。福祉はこれまでと変わらず人の幸せを実践しており、ただその幸せを自分の都合で受け入れようとしていないだけですから、自分から福祉を切り捨てていると言えます。


僕が再三「事実」と「感情」を分けて物事を考える自己分析をお勧めしているのは、こうした誤解を防ぐためでもあります。

まとめ ~「福祉」の在る場所~

今回は「福祉の切り捨て」と「願いをかなえる装置」について、「公共の福祉」という視点からお話しさせてもらいました。


その言い分が「自分だけを救うのか、社会全体を救うのか」で判断すると、主張する人が公共の福祉という視点から「福祉の切り捨て」を訴えているのか、自分だけが得するために相手を「願いをかなえる装置」にしようとしているかがハッキリします。


僕は、福祉の実践者たる介護士や施設は公共の福祉を実現する場合に率先して手を差し伸べるべきであり、利用者・家族は自分たちが必要とするサービスが確かに社会に必要なのだと証明し訴えていくべきだと考えます。


むやみに人を助ければいいというわけではないし、人に助けを求めればいいというわけでもありません。


それは自分も相手も「ヒト」ではなく「コト」として扱わせる「願いをかなえる装置」に陥る道筋であり、本来助け合うはずの利用者・家族、施設、職員の三者を分断させる悪手です。


お互いを想い合う「ヒト」とのつながりの中にこそ「福祉」は在る。そう思います。


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