介護で現状に満足してしまうとどうなるか

※ 本ページはアフィリエイトを利用しています。

介護
スポンサーリンク

先日友人とメッセージのやり取りをしている中で

「現状に満足しちゃうと多くを望まなくなって五感が鈍るんじゃないかな?」

という話題が出てきました。


この「現状に満足する」「五感が鈍る」というのは、介護で働く人や家庭で介護をする人にも当てはまる大切な視点だと思いますので、今回はこの視点から介護の幸せについて考えていきます。

「現状に満足する」とは?

介護で現状に満足することを考えるにあたって、まずは「満足」の定義を確認していきましょう。

 心にかなって不平不満のないこと。心が満ち足りること。また、そのさま。「満足な(の)ようす」「今の生活に満足している」
 十分であること。申し分のないこと。また、そのさま。「満足な答え」「料理も満足にできない」
 数学で、ある条件を満たしていること。

満足 –Weblio辞書


こうしてみると「心が満ち足りること」「十分であること」「ある条件を満たしていること」が「満足する」ことだと言えますね。

その中でも「心が満ち足りること」は「幸せ」に通じます。

幸福とは、心が満ち足りていること。幸せ(しあわせ)とも。

幸福 -Wikipedia-


「心が満ち足りていることが満足」であり、それが「幸せ」でもある。

そのように捉えると「現状に満足する」とは「このままで十分幸せ」という状態だと見えてきます。
感覚的にも「そりゃそうだ」としっくり来る内容となりましたね。

現状に満足できない人々

ただ「このままで十分幸せ」と感じられたなら、それ以上を求める気持ちは薄れていきます。


既に満たされていて後はその状態がずっと続けばいいわけですから、「自分から何かしよう」「頑張ろう」といった向上心は生まれません。

むしろ「なぜ頑張る必要があるのか」「むやみに変えようとしないでくれ」といった停滞を望むようになります。変わらずにいれば幸せのままだから、と。


しかし自分たちがどれだけ変わらないままでいたいと思っても、周りは変わっていきます。

なぜなら誰かにとって現状が満足いくものであっても、他の人も同じように満足できるとは限らないからです。それどころか現状に満足できず「変えよう」とする動きが現れるものです。


こうなるとお互いに「幸せ」を求めているにもかかわらず、「何によって幸せを感じられるか」が異なるために争わなくてはなりません。小さな口喧嘩にせよ国を巻き込む戦争にせよ、社会の中で生きていく以上価値観の相違によって人は現状に満足できなくなるのです。


もしお互いに幸せになる方法があるとすれば、価値観を同じにするか、なにも望まないかのどちらかになります。

共有できる価値観ならばお互いに受け入れればいいでしょうし、どうあっても受け入れられない価値観に対しては何も望まず関わらない方がお互いのためでしょう。


ただ「なにも望まない」選択をした場合、その人は「感じる」ことを手放さなくてはなりません。

五感を鈍らせる「幸せ」

なぜ「なにも望まない」場合、感じることを手放さなければならないのか。
それは「望み」というものが目、鼻、口、耳、肌などの感覚が捉えた刺激に反応して生まれるものだからです。


たとえば、あなたは目で見た映像によって「この場所に行ってみたい」という望みを持つかもしれません。


いま行けなくとも、「行けるようになったら行ってみたいなぁ」と想いを強くすることもあるでしょう。

こうして「映像を見る」ことで脳を刺激され、あなたの中に「望み」が引き出されるわけです。


他にも鼻で嗅いだ香ばしい匂い、口で味わったおいしい食事を「自分でも作ってみたい」と考えるかもしれません。


自分で作れたらいつでも食べられるうえに友達を招待して振る舞うこともできますから、今から練習して備えておくのもいいでしょう。

「おいしい」という同じ価値観を共有できるのなら、そこに「幸せ」が生まれます。


また耳で聞こえた音楽から「誰が歌っているか知りたい」と思うかもしれませんし、外の風に触れて「寒いから上に羽織るものを着たい」と思うかもしれません。


こうした「望み」はすべて感覚を通じてあなたにそう思わせた結果生まれたものです。
何かを望む以上そこには望みを生むだけの刺激と、それを受け取る感覚が存在するわけですね。


となれば、こうした望みを手放すのなら「感じない」ようにする必要があります。

目で見ても、鼻で嗅いでも、口で味わっても、耳で聞いても、肌で触れても、その刺激に対して反応しないようにする。そのように五感を鈍くして何かを望まないようにすれば「なにも望まない」状態となり、人と争わない平穏を手に入れることができます。


争いによって傷つけられた人々にとってその平穏は心から望んだものでしょうから、幸せと言えるでしょう。


ただこの状態になったとき、本人に幸せを感じられるだけの感覚が残っているかどうか。
鈍った五感で得られる幸せは、そうなる前に思い描いていたものと同じかどうか。


心を満ち足らせるだけの刺激とそれを受け取る感覚を手放した以上「幸せ」の質も量も変化していますから、改めて価値観を捉え直すことになります。

ただこうなると「価値観を共有する」ことで幸せを感じられる以上、五感を鈍らせた分だけ幸せから遠回りしていることになってしまいますね。


こうした価値観の変化によってその人らしい幸せに近づいたのなら後は当人の問題なのですが、ただ「このままで十分幸せ」だと思いたいのなら「五感を鈍らせる」よりも「価値観を共有する」ほうが誰にとっても優しい方法だと言えますね。

fujiwaraさんによる写真ACからの写真

介護で現状に満足してしまったら?

ここまでの話を踏まえたうえで介護の幸せについて考えていきましょう。


幸せを考えるためのキーワードは「価値観の共有」です。
自分や相手の心を満たす価値観を一緒にしたとき、「あなたと居られて幸せ」とお互いに感じるようになります。

同じ趣味を持ったり、同じものが好きだったり、同じ考え方をしていたり。

そういった同じ価値観、すなわち「通じるもの」があるとき、人は自分が相手から認められたような感覚になり幸せを感じられるのです。


そして介護でその幸せを実現しようとするなら、自分の価値観に相手を合わせようとするのではなく、まずは相手の価値観に自分を合わせる必要があります。

これはなぜかと言うと、介護を必要とする人は大なり小なり生きる上での困難さを抱えており、それを介護する人に手伝ってもらうという引け目があるからです。


前提として考えなければならないのは「生きる力」の一部を損ねた状態は生物としての生存が危ぶまれる、ということです。

自分の力で着替え・整容・食事・入浴・排せつなどの日常生活が送れなくなると肉体的にも精神的にも衰えが始まりますから、その部分を助けてもらうというのは「命を救われる」のと同じです。


介護とは単に「身体介護」「生活支援」といった項目の実践だけではなく、本質的にはその人の命を救う行為です。そしてそれだけのことをしてくれる人に対し、介護される人は(表面上そうと受け取れなくとも)感謝すると同時に引け目を感じざるを得ないのです。


「ここまでしてもらって助かるわぁ」「なんだか悪いねぇ」と。


そうした引け目がある以上どうしても介護される人は介護する人に合わせようとしてしまいますし、介護する人も「自分に合わせてくれた方が介護がスムーズに行える」という理由からそれを疑いなく受け入れます。

こうして介護において「上下関係」が成立し、「してあげる介護」が横行することになります。


そしてこの「してあげる介護」が介護する人にとっては「現状に満足する」状態となり、ここから「五感を鈍らせる」ことにつながっていきます


そうならないために、まず介護する人から介護される人に歩み寄ることが大切なのです。

介護する人に合わせようとする前に「こちらが合わせますよ」という姿勢を見せれば、介護される人は安心してその人らしく生活することができるのですから。

介護における「幸せ」

ただ、もし介護する人が「介護しやすいから」という所で満足してしまったらどうなるのでしょうか。
ちょっと考えてみましょう。


そのような介護をする人にとって一番介護しやすい状態とは「自分の思い通りにすること」ですから、介護される人の意志がなくなるほど思いのまま介護するようになります。そして介護される人は自分を救ってもらう引け目があるためそれを受け入れざるを得ません。

もちろん「生きる力」が十分残っている人はそれに反発しますし、介護する人が暴力を振るわれる理由の大半はここにあります。(これは認知症状のあるなしに関わらず生存本能の為せる業ですから、そうさせてしまっている時点で介護する人にも課題があります)

しかし月日が経ち反発する力も衰えていくと、どうしても介護する人の望みを受け入れざるを得なくなります。そして一度受け入れてしまったら後は崩れ落ちるように「生きる力」を、その先にある「生きる意志」をも失うことになります。


そうなることが人生最後の幸せであるかのように、五感を鈍らせていくのです。


一方で「してあげる介護」をする人は、介護される人のそのような心の動きに気づきません。

なぜなら「してあげる介護」が自分にとって最適で、楽で、幸せだから。
その現状に満足し疑う余地がないと思い込んでいるから、その状態を生み出すために相手に何を強いているのかについて鈍感になっているのです。


介護を受ける人の目を見れば、そこに意志の力が宿っているかに気づけます。
声を掛ければ、その反応速度・態度からどれだけ生きようとしているか気づけます。
食事をどれだけ楽しみにしているか、触れる肌がどれだけ温かいかでも気づけます。

もしそのことに気づけないというのなら、それは介護される人が過剰なほど介護する人に合わせているサインと言えます。相手の生きる力を、その意思を失わせているシグナルとも。

介護する人が現状に満足せず「本当にこれでいいのだろうか」と五感を研ぎ澄ませていれば、介護される人が自分の介護を受けてどれだけ幸せに生きているのかに気づくことができます。


介護の「幸せ」とは、介護する人・される人のどちらか一方に偏るものではありません。

お互いの価値観を理解して満ち足りた生活を共に作り上げていくこと。
その為に介護する人から歩み寄ること。

その営みを通じた先に「お互い様」という介護の幸せがあるのです。



介護ブログの他にも、介護ニュース等などを取り上げるnote、読書にまつわるアメーバブログを運営しております。



また僕が介護を考えるうえで参考になった書籍を紹介しますので、よかったら一度読んでみてください。


本からの学びは揺るぎない自信へとつながっていきます。

介護を自分の「感情」頼りにするのではなく、知識や経験に裏付けられた「事実」と併せて行うことで、介護はすべての人を豊かにしていくことができるのです。


一緒に学んでいきましょう。

【併せて読みたい記事】
介護士と自己分析 ~みんなで幸せになるために~
自分と向き合おう! ①分析してみよう


「想い紡ぐ介護士、ナカさんのブログ」では皆さんのコメントをお待ちしています。
よかったらこの記事へのコメントや感想などをご記入ください。

またこの記事をTwitterやFacebookでシェアしていただけるととても嬉しいです。

下の「シェアする」のアイコンをクリックすると簡単にシェアできますので、
よかったら使ってみてください。


    コメント

    タイトルとURLをコピーしました